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水銀の落下

過去ログ #1-#49

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#49

グノーシア、switch移植で順調にプレイ人口が増えていますね。いいことです。僕はというと、今年の正月に夢中でプレイしました。実はvita持っていなかったので、これをプレイするために購入していたり。
いや、文句なしの神ゲーですね。特にゲームの解説とかはしませんが、とにかく自分でプレイすることに意味があるゲームだと思います。
僕が個人的に感動したのは「ゲーム内容」「ゲームシステム」「ゲームをプレイする意味」「ストーリー」が全て完璧に結びついていることです。
なぜ人狼ゲームを何度もプレイするのか? なぜプレイする度に役職が入れ替わるのか? なぜコレクション的要素(特記事項)を収集するのか? ゲームとしてシステム的な根幹部分に根付いている命題を、ストーリーとして丁寧に回収しているのが素晴らしい。

かつ、ループものとしても文句のない出来で、CROSS†CHANNELで行われたループという構造の追及と解体もしっかり受け継いでいる。そしてエンドレスエイトで行われた、「ループ」現象をプレイヤーに追体験させる試み。それらをこの人狼ゲームに組み込んでいるのは手放しに称賛できるポイントだと思います。


僕が特に声を上げてしまったのはSQシナリオ。C†Cの山辺美希シナリオの、ループを認識したうえで「今この瞬間にしかいないあなた」への「今この瞬間の私の想い」という超越的なアプローチを思い出しました。SQはオリジンとして、かなりアイデンティティの不明瞭さを抱えており、その殻からの逸脱・成長とともに、「このループへの主人公」への愛を叫ぶ展開は、正直に泣いてしまいました。
対して、終盤のセツの発言「私はループを繰り返した時間をなかったことにしたくない」は、「ループするからこそ、ともに歩めた君と僕」の肯定で、SQの「ループ故の一回性」と対照的ですね。どちらもバックボーンからの重みのある良いセリフですが、個人的にはSQのほうが刹那的で、切なくて、ドラマとしては好きです。ただ、セツのほうがゲームの到着点として美しくて、このグノーシアを締めくくるのにふさわしいエンディングでした。そして真エンドにはシステムがストーリーと絡みついているからこその、メタ的なプレイヤーの介入。
ループというSF性に真っ向から取り組みながら、ノベルゲームシナリオの歩んできた軌跡を丁寧に踏襲していて、文句なしの傑作です。

 

そのほかでいうと、ビジュアルではコメットとラキオが好き。ゲームとしてはククルシカが手強くて苦手でした。ちなみに146ループでクリア。人狼ゲームとしてもテンポがよく、区切りも短いので、かなりハマりました。

グノーシアが終わって、使い道がなくなったvita、売却しようと思ってましたが「俺達の世界わ終っている。」を購入したので、時間を見つけてプレイしたいですね。

#48

ドヴォルザークのユモレスク第7番の中盤の転調を聴くたび、架空の泣きゲーのクライマックスを錯覚して泣きたくなるんですよ。最近、自分の人生に期待や希望を何も抱いていないことがわかり、24、もう何も若くなく、そして成しえたい努力の方向性すら失っていることに気づきました。自分の住んでるアパートから少し離れたところに、かなり老朽化した公営団地みたいなのがあって、住人は全員70くらいのご老人なんですよね。老齢ばかりなのに、誰も若い人が立ち寄っている雰囲気がなくて、いつ見ても世間から隔離されていてひっそりしている。昼頃に通りかかると、住人たちが通り沿いに出て補助カートに座って、ぼーっと虚空を眺めたり、鳩に餌を撒いたりしています。僕はそれを見るたび、人生の終着点について考えてしまう。現状、僕は特に結婚する気配もなく、将来的な意欲もないのですが、そのまま進んだとして、40・50を超えた時に、子育てや夫婦生活を超える、確固たる自身の営みと、それを選択した自信がちゃんと獲得できているのか。なんとなく恐怖心はあります。とはいえ僕は関係性を問わず、身近に他者を置いて上手く持続した経験が一切ないため、人の生活と寄り添ってはいけない人間なんだと思っています。僕みたいな欠陥人間は、迷惑をかけないように他者と一定距離を置かねばならない。結婚なんてもっての外だと言い聞かせているのですが、人は時として論理を超えて行動してしまうので、それも恐れています。僕は僕自身を何も信用していない。欲を言えば、数人規模の友人関係を維持しながら、適当に笑いあいながら慰めあって生きるようなスタイルを望んでいるのですが、それを知り合いに話したら「住む場所も、労働条件も、年とともに乖離していく。君は維持できても、相手は他の喜びを見つける可能性も大きい。なにより、今は些細な人間性のズレも、年を経て断絶が決定的になるものだ。老年後も同じ友人でいられる補償なんて誰の間にもない」と身も蓋もないことを言われてしまいました。まあ、そもそも僕は友人関係も長期的に維持できたことがないのですが。将来のことを話しても仕方がないといえば仕方がないですね。しかしね、冒頭に述べたように僕にはもはや希望がないんですよ。人は何か最終的な計画や、地平の向こうに期待を置いて、それによって明日目覚めることを良しとすると思うのです。今すぐ死ねば? って声がいつだって聞こえてくる。それに何か叫び返す力が欲しい。そういえば、最近、知人の嫁には「何か生きることに意味を見出し続ける必要はなく、自分は寝て食ってそれで幸福」と言われて驚いた。日常を肯定できる人間はこれほど眩しいのだな。僕には肯定する日常さえない。ただ生が無意味でないように、何かを生産しようともがくばかりで、実際はその舵取りすらできていないんだ。走っている間は止まった時のことを考えなくて済む。でも、本当はもう足の感覚はなくて、自分はすでに歩みを止めているんじゃないかと感じている。関係ないですが、最近はヌーヴェルバーグ映画をいくつか見てます。何を見ても眠くなって、理解できているとは思ってないんですけれど、映像はとにかく綺麗で演出は面白い。そういえばゴダールには決別って映画があって、これもまったく内容を理解できてないんですけど、冒頭の独白が好きです。

私の父の父の父が困難な務めを果たすときは、森の中のある場所へ行って火をおこし、静かに祈りを一心にささげること、願いはかないました。
後に、私の父の父が同じ務めに直面したとき彼は同じ場所でこう言った。「火はおこせませんが、祈りは唱えられます」すると願いはかないました。
父も森へ入り、言った。「火のおこしかたも祈りの奥義も知りませんが、願いがかなうこの場所を知っています。それで十分でしょう」そして願いはかなった。

 

だが、同じ務めに直面した私は家の中で考えた。

「もう火もおこせないし、祈りも唱えられないうえ、森のその場所も知らない。だが、まだ物語は語れる。」

#46

今日は珍しく元気でした。元気というのは躁とは違って、生きる希望に満ちて、不思議と自分を肯定できる日のことです。僕は食パンが好きなんですが、ちょっと奮発してHAREっていうちょい高級な食パンを並んで買ったんですよ。いやー、これが美味しくて美味しくて。生の食パンかじってるだけなのに、甘くてふっくらしてて、自然と笑みが出てしまう。食の楽しみってこういうことだよな、と久しぶりに朝からおなか一杯になりました。そのまま散歩にいって、陽をしっかり浴びて、お昼寝もしました。死ぬ前に思い出すのって、こういう何気ない一日かもしれない。ただ、こういう日に限って小説はうまく進まなかったりする。僕の場合は基本的に小説内のテンションと、自分の精神の波長をチューニングする必要があって、暗い小説を書くときはテンションも下げなきゃいけないんですよね。これは厄介で、精神を下げなきゃ書けないのに、精神が鬱ってるとそもそも創作にマトモに向き合うことなんてできないんですよ。どうにか創作物と自分をうまく分離しなければいけないんですが、まだまだ僕は未熟です。今日はせっかく明るい気分なので、好きな曲を聴いて、くねくね踊ってから寝ます。ぴぃ~。

#45

一日中憂鬱としていた。こんなところでテキストを書いているのはよくないことだってわかってる。結局のところ、パフォーマンスで、同情を誘うか、何か生産的なことをしたというまやかしの達成感を得ることにしかならない。僕は断食芸人です。本当は小説を書きたくて、ずっとテキストファイルと向き合っていたけれど、どうしても食道あたりがムカムカとして、気分が悪くて頭脳労働が出来ない。こういう時、アルコールを飲んで解像度を下げられればいいのかもしれないが、習慣化して戻ってこれなくなるのを恐れて、シラフのまま立ちはだかるこの苦痛を睨み続けてしまう。根が真面目なのかもしれない。今日はインターネットが怖い。ネット著名人的な人間の発言を読んでいると、彼らはどうやらネットの声というものを恐れていないような気がする。心に一枚壁を作って接しているというか、うまいこと悪意と精神の間にフィルターを作ることに成功しているようだ。だからこそ、ネットで活動し続けられるのだと思う。それが出来なければ、早々に退場していくのみだ。僕は、インターネットと感情がかなり連動してしまう。幼いころからネットコミュニティで生きてきたので、喜怒哀楽がネット社会の機微と結びついてしまっているような気がする。TLで皆が怒っていると、その対象が僕なんじゃないかと恐怖心に囚われる。被害妄想でしかない。でも、他者を非難することに躊躇がない人間を見ると、気分が悪くなって落ち込んでしまう。Twitterは本当に向いてない人間だと思う。それでももう10年くらいTwitterにいる。依存症に違いない。誰かと繋がっているような錯覚が欲しいんだと思う。幻想だと知っていても。逆に、現実の社会生活ではうまくフィルターを作れているのが面白い。学校や会社で嫌味を言われたり、怒られたとしても、それほど精神に響かない。というか、社会生活中の僕は、普段の僕とは他人だという感覚でいる。結局、ネットのほうが素の自分に近い。幼いころはネットでしか他者と向き合うのを避けてたせいかもしれない。インターネット人間です。まあ現実が苦手なのに現実でしか生きられない人はたくさんいるのだから、インターネットが苦手なのにインターネットでしか生きられない僕みたいな人間もいて当然だろう。他者を攻撃する人が怖い。他者を攻撃することを前提としているコンテンツが怖い。そしてそういうコンテンツを嬉々として持ち上げる人々が怖い。そういう人間たちが、空いている手で、友人や恋人に愛を説いているのが一番怖い。そういう人たちと頑張って付き合っていた時期もあったけど、ふとした瞬間に抵抗なく他者攻撃出来てしまう精神が垣間見えて怖くなって離れてしまった。でも、程度はどうあれ、誰だって、誰かを傷つけている。僕だって。「良い人」が無害な人だと定義するのであれば、究極の良い人は死人だ。人間は存在する限り、他者に害を与え続けるのが宿命だと思う。それをどこまで抑制し、また他者を許容するか。結局、人間関係はそれに尽きると思っている。僕は許容されるために、恩を売ることばかりしてしまう。他者との関係性をポイント制だと思っているから、いかに相手に恩を売って、相手から恩を買わないか、総得点をプラスに持ち越せるかのゲームだと思っている。結局、疲弊するようなプレイングしかできないんだ僕は。生き延びることに向いてないかもしれない。そうして他者に許容されようと媚びへつらって、でも相手の攻撃性は許容できずに、逃げてしまう。それは僕が卑屈で狭量で傲慢なことに他ならない。ヤマアラシのジレンマではないけれど、傷ついて傷つけて、適正な距離を測らなくてはいけないのに。自家中毒に陥って、人間として腐っていくことしかできない。誰か助けてくれって漠然と思いつづけてるけど、救えるのは自分以外無いことは分かっている。今日も薬入れに転がっている、名前も忘れた何かの錠剤の半分を飲んだ。そろそろフワフワしてくる。アルコールに逃げるのと何も変わらない。本当に頭が悪くて、自己嫌悪する。

#44

実生活していると、なんだかんだ小さなエラーを出しながらも普通に社会人生活が出来たり、部屋も汚部屋化することもなく、そこそこな生活水準を保てている。そのため、自分はなんだかんだちょっと生きづらさを感じているだけで、何の障害も持ち合わせていなくて、傍から見ればなんてことはない一般人なんじゃないかと勘違いするのですが、自分の喋ってる録音や表情の録画を見直すと、一目で問題がある人間のそれだと分かってしまうんだよな。急かされたように早口でしか喋れないし、すぐに甲高くなるし、相手の言葉をすぐに遮ってしまうし、声のボリュームは制御できないし、表情は無理やりなひきつった笑いで固定されっぱなしで、こんな奴と長時間喋りたくねーよって。人と喋る前には、いつも落ち着いて、声を低くして、相手の話を聞くように心がけるけど、喋りだすとすぐに忘れてしまう。こういうコミュニケーションの問題というか、無自覚に不愉快を与え続けるのが治せていないのは大問題だと思う。こういう問題を直面して、鬱っぽくなったり、生来の物だと卑屈になるのは、傲慢だ。問題と向き合って、もっと強く自省せねばと、言い聞かせている。少しずつ、他人に迷惑をかけない自分になれたらいいなと、前向きに取り組みます。

#43

特に脈絡もなくAAの話をします。AA、知ってますかね。アスキーアートの略です。
AAは、主に2ちゃんねるで栄えた、記号の組み合わせでBBS上に疑似的に絵を書く文化です。
手っ取り早く言うと、モナーとかギコとか、あの辺ですね。おもしろFLASHでの知名度が高いかもしれない。
起源とかカッコよく説明したいんですが、さすがに2000年代前半はリアルタイムでないので、調べた情報を横流ししかできません。自分で調べてください。


僕個人の話をすると、確か2ちゃんねるを見るようになったのが2005~6年くらいで、ほぼ初期のころからAA関係の板に張り付いてました。AAサロン・AA長編板とか、その辺。厳密にいうと最初はラウンジ板にいましたが、元々FLASH動画からAAキャラを知って、2ちゃんにたどり着いた人間なので、やはり興味が強かったAA板へ自然と流れました。ちなみにラウンジ板では初書き込みまでちゃんと半年ROMってた。偉い。

その頃は、まだAA長編板の長寿スレでも活気がある頃で、特に房津スレなんてすごかった。職人たちが日夜クオリティの高い作品を投稿しあっていましたね。僕はFLASHでもつーとフサ関係が大好きだったので、房津スレはのめり込むように見てました。というか、一番僕が最初に「俺の嫁」と認識したキャラはつーでしたね。いや、つーは正真正銘フサの嫁なんですが。
他には「虐殺するよ」、「世界制服をたくらむモララー」も既にビッグタイトルとして人気がありました。
ただ大手スレにはそのキャラのエロAAとかも貼られてて、小学生には刺激が強すぎてドギマギしたりしてましたね。今思うと記号の塊に欲情するってヤバイな。
その逆に、虐殺系のAAを張る荒らしも。エロAAとは真逆の文化に見えますが、ただの記号の塊に肉体の生々しさを感じていたわけなので、いかにリアリティを追求するかという点で、エロAAも虐殺AAも根っこは同じですね。
後年、ちょっとリョナっぽい趣味が出たのも、この頃に歪んだ文化を摂取しすぎたせいかもしれません。

まあ、そんなこんなで、AA長編に張り付いていたんですが、ちょうど小6位の時、その後のオタク人生を決定的に方向付ける作品に出会ってしまうんですよね。
それが「裏ギコ教授の何でも講義
」。一般的にAA読みでもすごい知名度があるわけではないと思います(多分)。
この作品はdat落ちしかけの数レスで誰もいなくなったクソスレを再利用して、人目をさけて地下でこっそり進んでいたアングラ演劇のような作品で。
内容としては、謎の研究所で背徳的な授業を続ける正体不明の教授と、いつの間にか生徒役として拉致されていた一般学生2人の物語。もちろん、有名な「ギコ教授の何でも講義」のパロディです。話が進むごとに、授業形式というフォーマットを離れ、民俗学やオカルト、黒魔術や生体実験といったシリアスなストーリーが展開。こんな仄暗い作品なんて一度も読んだことない僕は、すぐにその世界観に引き込まれました。
ちなみに、この作品から派生した「シャムしぃのお話」のほうが有名かもしれません。こちらは冒頭2話だけFLASH化もしていました。

結局、裏ギコ教授は中編くらいの程よい長さで終わって、最終話の後に作者からあとがきが書かれたんですね。そこには、この作品が「木島日記」という漫画に影響を受けて書かれたと記述してありました。
もちろん、この作品の虜になっていた僕は、夢中で本屋を駆け回ります。でも、木島日記はどこにも置いてない。
結局、親に頼んでamazonで買ってもらいました。多分、ブックオフを探せば一発だった気もする。小学生には、そこまで知恵が回らなかった。

もちろん木島日記にも大ハマりした僕は、その後、北神伝記やらサイコやらに傾倒していくことに。
大塚英二だけでなく、とにかくダークなストーリーにはまり続け、エルフェンリート、鉄コン筋クリートなど著名な漫画を読み始め、さらに少女椿、さくらの唄など過去の名作まで手を出すことに。
その影響は中学生を通して続き、途中で映画に目覚めるも、観るのは「ダークマン」「ゼイリブ」「エレファントマン」「デスレース2000」などなど。リンチ・カーペンター・ライミあたりは青春だった。今でも好き。特にカーペンター。
ジャンプでブリーチやらNARUTOやらアイシールドの話をしている同級生たちからは完全に逸脱し、誰とも趣味を共有できないまま、陰鬱な物語ばかり摂取する悪い方向の中二病へ。
タイミングを誤れば、死体の画像をプリントして修学旅行に参加したり深夜にグロ画像を見る腐れ野郎になったりしていたかもしれない。
まあ、今でも本質は変わらない気もします。

いつのまにかAAより僕の痛々しい中学生の思い出になりましたが、最後に僕の好きなAA作品をいくつか列挙しておきます。

(大雑把に、上からオススメ順)
人面創
盲雨
めんへらの死にざま 祝・完結
ガラクタウェスタン
死刑囚の手記   
山奥のしぃ先生
(*゚0゚;;)を飼いたいんですが… 未完

今ではかつてあれほどの隆盛を誇っていた房津スレすら過疎り、新作を投稿する人間がいなくなり、いつのまにかdat落ち。AA職人たちは日に日にその数を減らしています。
インターネットコミュニティは興亡の速度が速いですからね。使えるリソースが限られていた時代のみ、真価を発揮していた技能というのは少なくありません。
そういえば、前にふらりと立ち寄ったメイド喫茶で、メイドさんと話していたら「私、昔はニコ生クルーズでコメント職人やってたんですよ~」とカミングアウトされて、天然記念物を見たような驚きを体験したことも。
意外とあなたの周りにも、往年のインターネットで研鑽していた特殊技能持ちの猛者がいるかもしれません。

関係ないですが、2ちゃんを追うようになった当時、それに気づいた父は、必読書だと力説して「MMR」「寄生獣」「ジョジョ」の単行本を押し付けてきました。
当時の頻出ネタを理解するのに大変役立ちました。しかし、MMRは必要だったのか?

追記:保管庫が軒並み消えて、読めなくなっていた「裏ギコ教授の何でも講義」を元スレからサルベージしたので僕の方で保管ページを作成しました。

#42

昼から冷凍ピザを食んで、ビールを飲んで、色々飲んで、倒れたり座ったり揺すったりを繰り返してるダメな休日です。連休のほとんどをこうして過ごした気もするな。映画やらゲームやらも楽しんでいたけれど、圧倒的にベッドの上で無気力になっているか唸っているかの時間が長かった気もする。いや、本題はそこじゃない。ピザですよ、ピザ。セブンの金のマルゲリータなんですけど、これが大層美味い。ピザって何喰っても最終的にピザを摂取したという情報に集約されるので、ごちゃごちゃしたトッピングなんてなんでもいいと思ってるんですよね。というか余計なもんないほうがいいまである。つまり、マルゲリータが至高。僕は昔から極限まで薄いピザを好んでいるので、セブンのマルゲリータは生地がやや厚いのがネックですが、デリバリーで済ますくらいのピザ欲ならこれで十分だな。500円だし。まあオーブントースターが必須なので、一人暮らしの男性に誰彼構わず勧められるわけではないんですけど、トースターあるなら是非食ってみてくださいな。んで、今日はピザ食って、酔っ払って、ずっとNEVERMIND聴いてました。NIRVANAの。NIRVANA、まあご多分に漏れず、イキってた中学時代によく聴いていて、その頃を思い出すので今ではあんまりシラフでは聞けなくなってしまっているんですよ。Smells~とか、レキソタン入ってても聴きたくないからな。高校の時に行った知人の文化祭(他校)のバンド発表で、2組続けて酷いSmellsを聴かされたのを思い出す。あと、ライブハウスで学生バンドが、やたら入場曲に使っていた。曲自体はそれほど嫌いじゃないけど、リピートしたいとまでは思わないので、NEVERMINDでは1曲目飛ばしがち。というかこのアルバム、今の感性では全然好きな曲ないなと2回くらい通して気づいた。LithiumとIn Bloomは好きですが。王道すぎる。あとOn a Plain。ライブのゆっくりした演奏が好きかも。というか今更NEVERMINDに言及するって、マジで恥ずかしくなってきたな。僕は音楽についてまったく知見はありません。特段、グランジが好きって人でもないし。あー、でも目が回りながらLithium聴くのはやっぱり楽しい。それこそイキった中学生みたいなこと言ってるな。最近はこれでもいい感じなんです。人と話したり、創作に取り組んだりという気持ちが強まってきた。去年は春が酷かった。たしか、今頃。かまってちゃんの「死にたい季節」が春を歌ってるのって、とても良いですよね。なんか、あの人とかも死ぬ直前に死にたい季節を歌ってたらしいじゃないですか。ちょうど春だったし。いや、あそこに言及なんかしたくない。まったく関わりたくない。と思いながらグダグダ書き連ねてしまうのは何なんだ。このテキストはケルアックのOn the Road方式で進めております。まあ、とにかく、今年の春はそれでも比較的マシですね。そういえば、酷かった時にはよく棚とか壁とか自分の体を殴ったり体当たりしたりしてました。その時についた指の裂傷が、いまだに跡になって治らない。僕の体は変な傷痕だらけだ。中学生の時に手首をボールペンで刺された傷も、鮮明に残っている。見返すたびに、鬱々とする傷だらけ。そろそろ脱皮したいですね。自分の体は嫌いです。心はもっと。

#41

I killed you, I’m not gonna crack.

#40

脈絡なく、PSの名作「夕闇通り探検隊」で好きな噂(エピソード)について5つ挙げようと思います。
言わずと知れたプレミアゲームで、入手がやや困難ですので、どうしても内容は気になる人はゲーム実況とか見てみるといいんじゃないですかね。
僕は実況動画をほとんど見ないので、どの実況者がいいのかは分かりませんが……。ちょっと覗いたけど、某兄弟のは好きじゃないです。

1.覗きじじいの噂
早速ですが、僕が本作品で最も好きな話。
街道沿いの古臭いエロ自販機屋で、自販機と自販機の細いスキマからこちらを見る目があった……という怪談。

個人的に怪談系での「良作」の条件は、物語が多重構造になっていること、そしてどこか消化不足のような嫌な後味が残ることです。前者は二段オチになっているのが分かりやすいですが、それだけでなく事件の要因が登場人物のバックボーンとも結びつくような多層性があると良し。後者は分かりやすいバッドエンドよりも、ちょっと切なかったり、解消できなかった気味悪さが残ったりする程度がいい。(ここらへんは御茶漬海苔先生の「惨劇館」シリーズが上手いです)
そういう意味ではこの「覗きじじい」は個人的に百点満点なエピソード。
結局、覗きじじいの正体は、「何度追い払ってもこっそり来訪するマセガキたちを追い払うための管理人の悪戯」として解決になりますが、それだとクルミが見た天井に張り付く怪人の説明にならない。
疑問を感じて調査を続けると、かつて隣家で真面目な男が女子生徒に誤りを犯してしまったという事件が明らかに。
更に深追いしようとする女性陣に、ナオくんは怒ったように打ち切りを告げる。
「僕の中にだって、そういう気持ちはあるんだ」と。

本作は中学生という「成長過程」で移り行く不安定な人物像と、「再開発中」の移り行く街並みの対比が繰り返されるゲームではありますが、特にこのエピソードは「真面目くん」なナオの内心に踏み入っていると思います。
中学生という「性」の目覚め、エロ自販機コーナーというロケーション、隣家の悲劇、そしてサンゴとクルミという対照的な女性像を前に、ナオの最期の言葉はプレイヤーの心も揺さぶられます。
成長と戸惑いというテーマの本作を現すには最も優れたエピソードなのではないでしょうか。

2.寄生虫の噂
めずらしいギャグ一辺倒なエピソード。ギョウ虫検査に引っかかったことから、寄生虫にむしばまれて死んでしまうという妄想に取りつかれたナオ。
なんか、こういう変な杞憂が、想像の中で膨れ上がって自分を支配していくのって、この時期確かにありがちですよね。
BGMも相まって、ついつい笑ってしまう、いい小休止的なエピソードでした。途中の怪人物も謎が深くて味がある。

3.らせん様の噂
サンジョウケイナが好きなんです。主人公のことが好きな、心が真っ直ぐで裏のない女の子。だけど、負けヒロイン、みたいな。オタクの好きな奴。現代アニメなら間違いなく青髪。
主人公のナオくんは本編中ずっとクルミ一筋で、とはいえ彼は臆病なのでひたすら遠回りで奥手なアプローチしかできてないわけです。
それも含めて、ナオくん視点だと、「いつもの三人」の関係性や、学校での立ち位置などをうまく調整しているように見えるわけですが、それが第三者視点になったときにいかに彼の視野が狭く、他者に迷惑をかけまくっているかが浮き彫りになる。
ある意味で断罪的なシナリオでもあると思うんですよ。

そうでなくともサンゴの気持ちなんて最後の最後までは無視され続けるわけで(4.にもつながりますが)、ナオくんが根源的に持つ誰も(自分も)傷つけたくないという思いは、回り回っていろいろな人を傷つけているんです。別ゲームのセリフですが「その卑屈さは既に傲慢ですよ」と言い放ちたくなる場面も多いですね。
まあ、それもこれも作中人物が男女関係なくナオくんに惚れまくってるのが問題の一端なので、一概に彼が悪いとは言えないんですけどね。

4.願いがかなう楠の噂
とても「シンドローム」シリーズらしいエピソード。
(クルミのような超人的な人間は除いて)どんな人間も、善意のみでは生きていない。それがどれほど親しい人物に対してでも、時として悪意を伴った行動を取ってしまうことがある……。という人間の誰しも持つ仄暗さを象徴するエピソードですね。
いつも仲良く行動しているナオ・クルミ・サンゴの三人ですが、実際はサンゴ⇒ナオ⇒クルミの複雑な恋愛感情が潜んでいるわけで、本編中にも幾度かその危うさが表面上に顔を出し、問題が顕在化したりしてます。
その中でも、本エピソードはサンゴのもつ嫉妬や執念、それらと自己嫌悪・抑制の心のせめぎあいが決定的に露出したエピソードかなと。

作中を通してサンゴは、いつでもクールで、恋愛に否定的なサバサバとした風を装っていますが、実際は誰よりもナオを想っている。それと同時にナオが好きなクルミには、嫉妬ももちろん、友情も感じているはずで。
サンゴは常に三人のバランサーであり、ある意味で最も過負荷な立ち位置。
だからこそ、願いが叶う楠の穴に「シイナクルミが病院に入りますように」と願いの手紙をいれてしまう。作中を通して長い時間、理性で押さえつけていた感情が、気を緩めて爆発してしまった瞬間だと思います。
ナオは(犯人がサンゴだと知らずに)その願いを見て怒りますが、サンゴだって自身の行動に幾度も自己嫌悪していたはず。
普段の強気で理性的なサンゴを、そこまで追い詰めたのは、他の誰でもなく、考えの浅いナオくんが悪いのですが、それが明らかになることはない。
数か月を経て絆が深まりつつある三人の関係の、影に潜む危うさを示すエピソード。これを終盤に持ってくるセンスがこのゲームの素晴らしいところですね。

5. 鳴沢団地の噂
打って変わってベッタベタな典型ホラー。森の奥の団地に入り込むと、裏世界のような気味の悪い集落にたどり着く。そのオチも「タヌキに化かされた」という、注文の多い料理店のようなストーリー。
なんてことはないテンプレエピソードなのですが、この鳴沢団地のビジュアルは最高ですね。

やせこけた犬、不気味な青年、ちらちらとこちらを伺う住人達、ドラム缶の焚き木。RADWIMPS「狭心症」のMVかよ、みたいな世界観が最高。
とはいえ、パキった男に変電所に連れていかれて「こいつが有害電波を撒き散らしている」と説かれる下りは、相手がバケモノというより、マジのイカれた人かもしれないという恐怖感があります。

たまには酔ったり狂ったりしながら読みづらい文章を撒き散らすのはやめて、まともにコンテンツの感想でも書いてみました。
僕はこういう青春ホラー的なものが大好きでして。このシンドロームシリーズももちろん、SFC(PS)「学校であった怖い話」シリーズ(アパシーも)、大塚英二作品や、漫画「死人の声を聴くがよい」、小説「フェノメノ」なんかも最高ですね。
皆さんもオススメの青春ホラーものがあればリプやらDMやらメールで教えてくれると嬉しいです。
次は学校であった怖い話の好きなエピソード書こうかな。かなり長くなりそうですが。

#39

慢性的な不眠持ちで、寝付いても眠りが浅いのは何度も書いている通りで、そのせいで安眠について考える機会が多いです。それをいくつか記そうと思ったらちょうどのタイミングで、にゃるらが睡眠不足のnoteを更新していた。まあ、僕は安眠グッズ云々より、精神的なあれこれや、生活環境の悪さが主要因な気がしていますが……。あと枕を次々と試したせいで、押し入れにかさばって困っています。まあ最近はというと、テレワークのおかげで、夜4時間+昼1時間+夕1時間の分割睡眠が可能になったので寝付けない日でもどうにかやり過ごせて助かっています。また、飲み始めたストラテラの影響なのか、前よりは自然に眠くなることが多くなった気もします。肝心のADHD的な方面には効果をあまり感じられていませんが。

#38

新玉ねぎとコンビーフの炒め物がうますぎてうますぎて、「これチーズかけたらさらにいいんじゃねえか」って冷蔵庫にあったチェダーチーズ乗せたら、玉ねぎの甘味も、コンビーフのうま味も、すべてチーズが奪っていった。僕は泣きながらノンアルコールビールを飲む。こんなものはビールの代わりにもならない紛い物だ。でも、僕だって。

#37

流石に毎日酒飲みすぎだと思って、今日は禁酒です。うわあ、あれほどビールのストックがあるのになんて偉いんだろう! と自分を褒め讃えていたけれど、まだ起きて二・三時間しか経っていなかった。あと十時間以上アルコールをいれないで生活するって考えると気が遠くなってきた。特に最近はコンテンツを消費することとお酒を飲むことが密接につながってしまっていたから、映画とかを観ていると条件反射で飲みたくなる。しかし、屈してはいけない。僕は昔からなんでも依存体質なので、ここで意思を強く持たねば、あっという間にアル中になってしまうかもしれないのだ。人間は理性の生き物だということを分からせてやるぞ。ここでファイティングポーズ。

#36

「さくら、もゆ。」ってエロゲの感想をどこかにまとめようと思って数か月が経ってしまった。もうストーリーの細部も、プレイしながら考えていたことも、ぼんやりとした曖昧なものになってしまい、とても総括できる状況ではない。思い返すと、とにかくリーダビリティが悪い作品だった。3~4行しか表示できない狭いテキスト枠なのに、基本的な文体が冗長で、ダラダラとした描写が続くので、とにかく目が滑るわ話が進まないわでしんどかった記憶がある。膨大なテキスト量だが、話の密度が高いとも思えないし。僕とは相性が悪かったな。その後「MUSICUS!」をプレイした時に、全面テキスト表示UIの可読性の高さを再認識してしまった。そもそもヒロインも含めて誰一人それほど好きになれなかった。なんかこいつらの物語どうなっても興味ないなーみたいな。ただ、ラストルートのクロだけはちょっと好きだった。まあ、ラストルート以外は前座みたいな作品だからそれで正しいのかもしれない。基本的には自己犠牲と、生の肯定の物語なんですけど。全体的に世界観が綺麗すぎるのも躓いてしまったポイントかもしれない。幻想世界を描写するのに、「猫」「銀河鉄道」「夜桜」「レンガ造り」「ガス灯」みたいな、パーツ単体で美麗なものをひたすら並べ立てると、どうしてもラッセンの絵画みたいなチープさが生まれてしまうなあと感じた。でも全体として話の構成は悪くはないし、繰り返されすぎてくどい節はあるけれど、『運命により酷い役割を与えられてしまったとしても、抗いながらその「生」を肯定していこう』というテーマは徹底している。ここまで書いておいてなんですが、70時間くらいプレイするより、にゃんたこさんのこの動画を観るのをオススメします。2分でわかる「さくら、もゆ。」として。(僕が勝手に言ってるだけの妄言)

#35

映画を観ている。僕は普段、ひっきりなしに外出するタチなのだけど、だからといって家に滞在しつづけるのが苦痛なタイプではない。家にいれば、必然的にモニターにくっついてる時間が長くなる。エロゲやらアニメやらゲームやら小説やら漫画やらでも時間をつぶしてるのだが、最近は特にだらだら映画を観る時間が増えた。こういう精神の時は、展開が早すぎず、スケールも小さくて、アクションがない映画がいい。というか、元々変拍子な映画が好きなんだ。ヒーローものとかも一通り観てはいるけど、それほど傾倒してはいない。エンタメ然としたものが苦手かもしれない。脚本論とか、山場の配置とか、理論で心を動かす魂胆に辟易しているのかもしれない。悪いものだとは思わないけど、数をこなせば退屈に感じるのは仕方がない。別に穿っている作品である必要はない。とにかくリラックスしていて、チルアウトな雰囲気が流れていればよい。最近見た中だと、「ネブラスカ」はロードムービーなのにミニマルでよかった。そもそも、アメリカのフロンティア精神が根底にあるのがロードムービーなのに、最初っから「負けに行く」のがいい。終わってる人間たちが、終わりを自覚しにいく旅の中で、少し肯定的な人生観を得られるのは素敵だと思う。そういう意味では「リトル・ミス・サンシャイン」も気になっているけど、未見だ。GW中には見ようと思う。

#34

テキストサイト・ヌクモリティ

#33

エロ漫画におけるロードムービーの傑作って、「ろりともだち」って風潮あるじゃないですか。まあ、異論ないんですけど、でも「ろりともだち」のアメリカンニューシネマ性をさらに突き詰めたという意味で「完全版わんぴいす」もいいんですよね。同人誌でラフとかストーリーしか公開されてないけど。あれが漫画として完成してたら大傑作だったな。でも、僕が勧めたいのは内々けやきの「とおくへいきたい」なんですよね。クジラックスと比べるとミニマルでなんてことない作品なんですけど、ああいう男女のさっぱりした別れ際って大好きなんですよ。滝本竜彦の「僕のエア」中盤の同棲パートとその終わりがドンピシャで性癖なので……。内々けやきなら、ロードムービー的じゃないけど「幽霊との日々」も好きだな。皆さんもエロ漫画ロードムービーものでオススメがあったら教えてくださいね。

#32

昼からチャーシューを焼いてます。これが幸福ってやつか? 知ってるか、日向ぼっこしながら瓶ビール片手に吸うタバコは最高に美味いって。世間では明日からGWですね。僕は昨日不眠がひどくて一睡もできなくてやってらんねえやって会社サボったから、今日から一足先に長期休暇ですワハハ。インドの青鬼って知ってますかね。IPAって種類のビールなんですけど、市販のIPAン中では一番美味しいんですよ。最近このテキスト読んでる人は気づいてるかもしれないですが、もう酒ばっか飲んで、酔っ払ってるか睡眠薬で狂った状態でしかテキスト書いてないですね。文頭と文末が全然つながってなくて読みにくいったらありゃしねえの。知ったこっちゃねえけど。つーかここを読んでる人間なんているのか? いやーそれにしてもビールは美味い。不健康なイメージが先行してるけど、飯そんなガツガツ食わなきゃ許してくれませんかね。ホッピーも好き。ホッピーのほうが体に悪くなさそうなので、ガブガブ飲んじゃうな。そういや、体が最近終わってきてますね。どうにも痩せすぎててさあ。ドライヤーとか数分持ってられえの。つーか、鏡見ると腕、細っ! っつって。そりゃそんな骨みてえな腕でドライヤー支えらんねえよ。で、数分置きに休みながら髪乾かしてるんですけど。そういえばついに貧血? みたいなのが起き始めましたね。パスタゆでてたんですけど、そろそろゆで終わったかなーって椅子から立ち上がったらなんか目の前がめっちゃノイズして。気が付いたらコンロの前でぶっ倒れてましたね。数分たってたのかな? とにかくパスタが伸び切って不味いの不味いの。うはは、これが失神てやつですかね? ウチは母親が精神不安定なうえに栄養失調気味で、よく貧血でぶっ倒れてたのを思い出します。テリーのワンダーランドってゲームあるじゃないですか。僕、初めてゲームボーイでプレイしたのがテリワンなんですけど、それ死ぬほどハマって。ある日、母親と二人で家にいたら、唐突に母親がぶっ倒れたんですよね。で、死にそうな声で「パパに電話して……」みたいなこと言うんですよ。でも、僕その時に鏡の扉を攻略してたんですよね。知ってますかね? デュランがボスなんですよ。そこクリアしたら星降りの大会やってクリア、みたいな最重要ダンジョン。そりゃ忙しいじゃないですか。だから、失神してる母にむかって「忙しいわ~」つってテリワンやってたんですよね。でも、母が可愛そうじゃないですか。なんか倒れて辛そうだし。僕も非情じゃないんで、母の横に座って、ずっと様子を見てあげながらテリワンやってましたね。結局、三十分後くらいに母は自分でなんとか起きだして、救急車呼んでましたね。僕は救急車にも付き添って、病院のベッドにも付き添って、ずっとテリワンやってました。ユニコーンってザオリク覚えるんすよね。マジ強いの。でも、適当に配合してたらエビルワンドってキショい物質系になって死ぬほど後悔したな。まあ、とにかく血も涙もないサイコパスみたいな幼少期だったな。母よりテリワンが優先だった。何の話だ? とにかく、僕が数日連絡つかなくなったら、栄養失調か飢餓かで死んでると思うんで、皆はテリワンとか東方人形劇とかやって自分の人生をエンジョイしてくださいね。

#31

Twitter見てると、案外みんな社会とか会社とか真面目に取り組んでるんだなあと感心してしまう。これは皮肉ではない。僕も普通にサラリーマンしているので、そりゃ社会とか会社に参画していることには変わりないわけだけど、それはそうとして当事者意識みたいなのは一切ないわけで。政治体制とか労働条件とか人権とか、良い方向にしよう! みたいな勢力へ積極的にかかわりを持っていこうという気力がわかないのだから、欠陥品なのかもしれない。むしろ逆らってやろうという気持ちさえ湧いてくるのは、ひとえに僕が「一体感」を嫌うからなのか、なんなのか。ヤン・シュヴァンクマイエルって知ってますか? チェコの映画作家で、ストップモーションアニメとかを多用するシュールレアリスム系作品を作ってるんですけど。マズそうな食事シーンと、埃臭そうな廃屋を描写させたら随一の、悪夢みてえな映画ばっかり作っている監督ですね。んで、そのシュヴァンクマイエルに「ファウスト」って作品があるんですよ。ゲーテで有名なファウスト博士伝説を題材にしてる映画でして。とある男が、街で怪しい男たちが配っていた地図をきっかけに、謎の建屋で、不可思議な演劇の主役としてファウスト博士の役柄を演じていくという内容です。幻想と現実が入り混じったような不可解でナンセンスな作品なので、説明は出来ないんですけど、僕にとって社会ってあの演劇なんですよ。「ファウスト」において、あの演劇とは「場」における強制力なんですよね。主人公は最初の頃はファウストを演じることを拒んでいたが、それを拒否することは許されず、いつしかファウスト当人として自ら振る舞い始める。会社や社会も同じで、生きている限り、その参画の拒否は許されず、当事者としていつのまにか振る舞うことを覚え始めてしまうもの。僕はよく会社が辛かったり、仕事内容が合ってなくて鬱になっていると勘違いされるんですけど、まったくそんなことはないんですよね。僕はいつだって、自分に怒っているだけで、あれほど働くことを拒んでいたにも関わらず、社会人として案外うまくやっていて、それなりに働いて評価されて、その成果を褒められて一喜一憂するようなつまらない人間になってしまったそのことにむしゃくしゃしてるんですよ。「ムーの少年」でヒロインの女の子が、魔法使いであることを思い出せず、仮の姿である女子高生としての生活の楽しみを見出していることに絶望するシーンがあるんですけど、あれは自分事のように胸に刺さる。「結局、そこそこの会社員やってるのが一番楽だよな」みたいな気持ちが僅かでも生まれている自分が許せない。でも、許せないからどうするんだ? 生きている限り、何かしらの役割を演じなくてはいけない。ニートみたいなキャラで売り出してるあの人やあの人だって、うまく役割を隠しながらマネタイズしてるんですよ。社会という演劇の強制力からは逃げられやしないんだ。そういえば最近プレイしたフリーゲームで、主人公が女の子に銃を突きつけるシーンがあって。そこで「殺す」「殺さない」って選択肢が出るんですよ。僕は何度も「殺さない」を選んだんですけど、そのたびに最初の二択に戻されて。最終的にはシステムメッセージで「選択肢を削除します」って言われて「殺す」しかできなくなるんですよ。メタ・ゲームに慣れ親しんだ自分としては、なるほど、インディーズゲームがやりがちなvsゲームシステムやvs製作者という構図に持っていくんだな、と期待していたんですけど、最後までその「選択肢を削除する」というシステムの介入への言及はなく、温い悲劇物としてゲームが終わってしまったんですよね。おいおい! じゃああの選択肢はなんだったんだよ! と叫びたくなりましたね。最初っから、選ばせる気なんてなかったんだ。プレイヤーが直接手を下したという事実を突きつけるために、お遊戯みたいな見せかけの「選択」を構成したんだ。それって最高に「選択肢」というシステムを、物語のキャラクタを、プレイヤーをバカにしてると思いませんか? 選べねえ選択肢ってなんだよ。キャラクタの自由なんて、塵屑みたいに上位存在が都合よく奪い去っていいものだと思ってんだ。ローラ姫を連れていく/連れて行かない みたいなしょーもない二択しかやる気がないなら、選択肢なんて演出すんなよ。僕、何にキレてるんですかね。とにかく、強制力。この不条理みてえな現実への参画は強制力なんですよ。じゃあ、どうすりゃいいのって、まあ死ぬことですよね。ファウストでも逃げた先には死しか待っていませんでしたからね。でもね、僕が死にたいかってそうではないんですよ。自死って論理じゃないですからね。いや、論理で死ぬ人間もいるかもしれませんが、僕にとっては論理で死ねないんですよ。カミュも言ってたじゃないですか。合理の要請とは裏腹に、体が避けてしまうって。飛躍の思考などに逃げず、生きてその不条理を見つめ続けることしかできないって。まあ、そういうことなのかな? あんま考えてないですけど、とりあえず生きようかなって感じですね。やるしかねえなら、せめてやる気なさそうに演技しますよ。誰か舞台裏でも酒でも飲もうぜ。こちとらオンライン飲み会する友達すらいねえんだからよ。

#30

皆さんは脳内友達とよろしくやってますか? 脳内友達、まあイマジナリーフレンドのことなんですが、僕は最近イマジナリーフレンドを久しく呼んでいません。でも過去を振り返れば幼少期から成熟するまで、ずっと脳内友達が僕の隣にはいました。現実の他者に心を開くより、自分の心の中の分身に打ち明け話をするほうが得意になったのはいつからでしょう。まあ僕の幼少期といえば、親が多忙の鍵っ子で、小学生から携帯電話を持ち歩いていたし、兄弟姉妹はおろか、親戚すらほとんどいないので、ひたすら孤独に耐えるゲームみたいなところがありましたし、空想で人格を形成してしまうのも仕方がない気がしますね。ちなみに当時はたしか、架空の兄を作っていた気がします。僕の現実での兄は妊娠5ヵ月ほどで流産してますが(このことは大分後に知った)。小学高学年・中学時代はほとんどネットに浸っていたので、あまり孤独感はなかったですが、ネットの知り合いに話すために、都合がいい架空のリア友とのエピソードとか捏造してましたね。経験から忠告するのですが、「嘘をつく」という行為の中でも、架空の人物とのエピソードを捏造するのはマジでやめといた方がいいです。嘘が加速していき、エピソードが更新されるにしたがって、主体であった自分が、創造した嘘の生活に呑まれてしまいます。早めに気づけて僕は救われた。今でも他者と一定距離を置く癖があって、半ば無意識に軽い嘘をついてしまう虚言癖があるのですが、人間関係の捏造はどうにか避けています。ネットでもそれで破滅した人は一定数観測できたり。話を戻すと、高校では実はずっとイマジナリーフレンドがいました。そいつは男とも女とも言い難い(自分の中で区別していない)存在で、架空の親友というより、自身の分身のような意味合いが強かったですね。闇遊技みたいなもんですね。たまに解説系サイトとかでキャラクター二人の掛け合い方式で進む記事あるじゃないですか。あれの現実版が僕です。こいつの発現は明確に覚えていて、アルバイトの初日に副店長に4時間みっちりパワハラされつづけた帰り道でした。この副店長は最悪で、後に部下からパワハラ通報を何度も繰り返されて、正社員なのにシフトに入れなくなってました。僕もバックれればよかったのに、社会を何も知らない15のガキだったので仕事とはこういうものなのかと半泣きで奥歯を噛みしめて我慢していました。バイトの初日、季節は冬の始まりごろだったんですけど、その帰り道の夜に自転車を手押しでとぼとぼ帰っていたら、初雪が降り始めたんですよね。酷い精神状態と、それとは裏腹な電灯越しに光る粉雪がきれいで、とにかく誰かとその瞬間を分かち合いたい衝動に包まれたんですよ。それで、誰もいない自転車を挟んだ向かい側に話しかけたのが全ての始まりでした。それ以降、理不尽だと思う出来事があったり、バイト中にひたすら暇になったりすると、そいつに話しかけてました。そいつはなんでも肯定するイエスマン、ということはなく、かなりメタ的なことを返すのが常でした。「自分はお前の脳みそが勝手にシミュレーションしてる存在なんだから、そんなこと相談しても無駄に決まってるだろ。自分は意思なんてなくて、自動的に頷くしかない人形だよ」みたいな小賢しいことをグダグダ話してた気がします。それでもなんとなく(自作自演の)キャッチボールをしてるのが楽しかった。オカルトっぽい方面で人工精霊というジャンルがありますが、図らずも精度のいいソレが作り出せていたような気がしますね。そいつを助手席に乗せて、よくアテもないドライブを続けたりしていました。不思議なもので、イマジナリーフレンドは何年も続けていると、はっきりと、隣に存在を感じることができるんです。思い返すと滝本竜彦作品の登場人物みてえだな。そもそもなぜ他者でなく、自分の分身という立ち位置だったかというと、単純に他者として細かい設定付けを脳内メモリをガリガリと使ってしんどいことが経験でわかってたからですね。メモリ不足はヒソカに怒られるので。あと、僕って共感みたいなものを強く求めている節があって、それを現実で他人に適用して失敗する事例が多々あったんですよね。一番わかりやすいのは食べ物の好み。僕が本当においしいと思う食べ物を、相手が貶してたりすると、すごくイライラして強い言葉で罵ったり、人格否定したりしちゃうんですよね。それって結局、一緒に「美味しいものを食べる」という体験を共有したいという共感性を相手に求めすぎているからなんですよ。で、現実で他社に迷惑をかけないように、自分の分身でそういう欲望を多少発散させとこうって魂胆なわけです。スペクトラルウィザードって漫画の中で、カオスウィザードっていう狂気じみた女の子がいるんですけど、彼女は周囲から距離を置かれてるんですけど、彼女は分身を作り出す魔法を徹底的に研究するんですね。その結果、行動も思考も自分と同一の存在を6人作り出すんですけど、そのせいで前までよりも周囲から孤立化していくんですよ。でもカオスは6人の自分と楽しくおしゃべりしているから何も気にしないわけです。僕もいくところまでいけばそうなれたのかもしれませんが、環境が変わり、バイトも終わり、いつしかそいつのことを呼び出す機会もめっきりなくなってしまいました。なぜだかそいつと過ごした少なくない時間のことも、最近はまったく思い出せなくなってきました。多分、今呼んでも昔みたいに、隣にその存在をはっきり感じられるほどのリアリティは得られないんでしょうね。なんだか古い友達を失ったような寂寥感があります。特にオチはないんですが、映画版の「僕は友達が少ない」は大傑作なので一度観てみてくださいね。公開当時、安易な実写化というだけでめちゃめちゃに叩かれてましたが、原作とは別物とすればなかなか退屈しない一作ですよ。それはそうと理科の役者が体当たり演技すぎて失笑する。

#29

クラスのヤンキーにデジモンミニを踏み壊された翌日、スケルトンカラーのUZIでスクールシューティングをする中学生の男の子

#28

どうしても許せない相手、憎くて仕方ない相手と、同じコンテンツが好きというのはとても辛いもので、「リリィシュシュのすべて」で最後、主人公がああいう凶事に及んでしまったことすら理解できてしまうんですよね。

#27

ただひたすらに酒を飲んでいる。家に引きこもるようになってから、無気力に酒を飲み続けている。
酒を飲んでいれば満足なので、飯はマトモに食わず、ガリガリに痩せていく一方だ。
そもそも仕事をしている日中はどうしても腹が減らない。まったく飯を食わないのも問題かと思って、とりあえずプロテインを飲んだり、カロリーメイトを食んだりしている。
料理は実は好きで、夜だけちょっと凝ったものを作る。でも、それも酒のアテにする名目が強いので、少量だ。
僕は確か少し前まで小太り体質で、結構見るに堪えない体形だったはずなのだけど、ここ一年で20kg弱痩せてしまい、いつのまにかBMIは「痩せすぎ」範囲に突入している。知人に会うたびにギョっとされる。ちょうど一年前から鬱と不眠症がひどくなり始めたので、そういうことかもしれない。それと、元々脅迫観念が強いところもあって、痩せてから「また太ったら惨めだ」「1kgでもリバウンドするな」「太っていた時はみんなバカにしていた。戻りたいのか」という架空の責める声が聞こえてきて、どうしても1日の摂取カロリーを消費カロリー以上にできない。拒食症というやつかもしれない。
そういえば、僕は保育園のときも拒食症に陥った。これは単に好き嫌いが多かった僕が、いつも給食を残すので、昼休み中給食とにらめっこさせられたり、寺の廊下を雑巾がけさせられたりしたせいだった。そう、僕はとある寺の経営する保育園に通っていたのだ。だから、必要以上に給食のお残しに厳しかったのかな。とりあえず、そのトラウマで僕は拒食症を発症してしまい、平時もご飯が食べれなくなったりした。その名残はしばらく続いて、結局中学を卒業するまで給食を完食することができなかった。配膳されるごはんにすごく拒否感があって、いつも牛乳だけ飲んでいたな。ちなみに今はそういう影響は吹っ切れて、好き嫌いも思いつく限り一切無い人間になった。まあ、今回の拒食症再発で台無しですが。
そもそも、僕は本来、結構"食"に興味ある人間だ。無気力な人間は食に興味がない人間が多い気がするのだけど、僕は割合、料理が好きな方だ。外食も好きで、店のコンセプトやデザインを見るのも趣味である。実家がそこそこグルメな家庭だったせいかもしれない。母は料理関係の仕事をしていたし、父もそこそこいい料亭みたいな場所に行くのが好きだった。逆に、ついぞ家族でファミレスみたいなチェーン店にいったことはない。両親は毛嫌いしていた節がある。
僕はと言えば、別にファミレスもチェーン店もラーメン屋も好きだ。そういう場所はそういう場所なりの楽しみ方がある。特に安酒を出すようないわゆる「せんべろ」系の立ち飲み屋みたいな場所も風情があっていい。雑に酒をちゃんぽんして酔っぱらうのはそれなりに気分がいいものだ。
こういう具合で料理も外食も好きなわけだけど、本質的には「摂食ってめんどくせー」みたいな感覚はぬぐえない。なんていうか、結局は食も「趣味」なんだよな。ちょっと元気があって、やる気が出てきたときだけ、食べることに向き合えればいいと思う。でも実際にはほぼルーティーンみたいに体に飯を入れる必要があって、それは単純に面倒だと思う。あまつさえ、栄養なんて考えるのはクソだ。だから、可能な限りプロテインとビタミンサプリで乗り切っている。
酒のいいところは、効用が分かりやすいことだと思う。なんぼ野菜を食んだって、体調の良し悪しが即時的に上下しない。その点、酒は飲めば飲むだけ酩酊に近づく。なんて発達障害に優しい飲料だろう。食べるのに比べれば、それほどエネルギーも使わないので疲れない。
僕はビールとチューハイと日本酒が好きで、そこらへんはなんか格好つかないなあと思う。ウイスキーに凝っていた時期もあったが、正直それほど舌が肥えずに終わった。今でもそれほどテイスティング能力に自信がない。そもそもストレートで飲むのが苦手だ。いつもロックに逃げてしまう。ワインなんてからっきしで、一切違いが分からない。なんと情けないことか。
今日も大量買いしているプレモルをダラダラと消費したり、冷凍庫にストックしているキンミヤ焼酎でホッピーを作ったり、レモンチューハイを飲んだりしている。アルコールに逃げている自覚はない。なんというか、居心地のいい大学近くのサークル仲間の部屋みたいなものだ。活性化エネルギーが極めて低いので、ついついそちらへ居着いてしまう。肋骨が脇腹だけでなく、胸の中心からも透け始めた体を見てため息をつく。
あ、そういえばZガンダム見始めました。面白いね。

#26

今日初めて会社に寝坊しました。寝坊つっても、テレワークなんで、急いで出社しなきゃみたいな慌てふためくようなことはなかったんですが、あーついにやっちまったなーみたいな諦めが寝起き様すごい勢いで駆け巡りましたね。そもそも僕は割と朝に強くて、日常生活でも寝過ごすみたいなことはほとんどないんですよね。どんなに夜更かししても、午後までダラダラ寝ることが出来なくて。どうしてもすぐに目を覚ましてしまう。というか、これをいうとよく驚かれるんですが、僕はかれこれ730日くらい毎晩夢を見続けてるんですよね。いや、覚えてないだけでそれよりもっと多いと思うんですけど、とにかく就職して一人暮らししはじめてからは毎晩欠かさずに夢見てます。朝にぼんやりその日の夢を思い出しながらシャワーを浴びるのが日課で、それが絶えたことはいまだないので、やっぱり眠りが浅いんですかね。中途覚醒も多いし、寝付けないことも多々あるので、酷い時期は心療内科で睡眠薬をもらっていますが、飲んだ次の日の倦怠感が好きじゃないんですよね。せめてマイスリーならまだマシなんですが、近くの心療内科でマイスリーを処方された試しがない。溜まりに溜まったブロチゾラムとかを半錠に砕いて乗り切ったりしてます。生活、そろそろ限界な気もするんですけど、意外と辛え辛えって言いながら何年も乗り切ったりするのかな。すこし環境が変わるように働きかけてはいたんですけど、疫病のせいでなんかそれもグダグダ延びそうな気配だし。自分が望んでいないところに、自分の成果の一部だったり、配慮や精神力が削れていくのは厳しいですね。というか僕っていっつも空回りばかりなんだよな。コミュニティみたいなものに貢献したり、好感を持っている人々に何か価値を提供できないかって前のめりになるんだけど、傍から見たら滑稽極まりないんだろうな。滑りまくって、いいように利用できるとこだけ利用してやるかって、まあそれでもそんな価値が見出してもらえるならいんだけど、そんなこともなく、単純にこいつうるせーなって見下されて終わってる気もするし。まあクソみたいな価値しか気づけなかった失敗人間の僕にはそれもお似合いかアハハ。僕って変な加害妄想があって、しかも被害妄想もあって、実は脳内がぐちゃぐちゃうるさいんですよ。結構好きな人は多かったりするんですけど、一定時間会話とかしてないと、急にその人が僕のこと恨んだりバカにしたりしてるような架空の声が聞こえてきて、何だこの野郎って、僕の中で勝手に嫌悪感が湧いてきてしまうんですね。だからいつも人と縁切ってばかりいるし、本心で仲良くしてる人間ができないんだな。自分を出すのがひたすらに怖い。人って賞味期限があると思ってるし。なんか、「この人のこともう大体わかったな」ってなると飽きませんか? 僕は飽きられるのが怖いから常に自分の半分くらいを見せるようにしてるんですが、そもそも中身がないから、最初から空虚なのが見え見えなんですよね。そうやって虚言癖みたいな付き合いしか一生できないんだろうな。ムカついててもヘラヘラ相手に何も言えないで、こうやって黙ってるだけなんだ。言ってやりたいですよ。あのさ、僕は何も言わないけど、あなたのその悪意をもって行動したアレとかは本当に品がないと思いますよ。あなたは僕が黙ってるのをいいことに、僕の態度を好き勝手解釈してるけど、僕は何一つ忘れてないし許してないんですよ。うー、こんなことを書き連ねても意味は何もないんだって一番僕が分かってるし、やっぱり本心では怒ってないんだよね。前にも書いたけど、個人的なことなら、結局はそれすら僕が許せば終わってしまうことなんだから。諦念か物臭か分からないけど、もう僕はへらへらやっぱりしているのが一番で、このうるせえ脳みそをどうにかしたかったら、本格的にぐっしゃぐしゃにしてやるしか方法はないんだ。そうして、うまくやっていくのか、妥協するのか、どっかで壊れるのかわからないけど、適当にその日まで生きていくんだろうな。やっぱりお前に価値なんてねーよ。浅い眠りの中で見る夢のような不確かさと一緒で、鎮痛剤打ったみたいな歪んだ視界の中で踊り狂ってるのがマトモに生きているようにみせるせめてもの強がりだ。それがいやならさっさとくたばれってな。笑う。

#25

前回のコミティアで出した小説をカクヨムで公開しました。

いわゆるVtuberについての小説で、当時その沼にどっぷり浸かっていた立場から、Vtuberと彼/彼女らを取り巻く環境を(特に悪意的なものを抽出して)描写しようという試みで書いたものです。僕は「中の人」的なものを無意味に暴き立てるような行為にとにかく辟易していて、本来ならばそれが不透明であるからこその表現としての可能性があり、新たなる才能の発揮の場所になり得るはずなのに、と考えていました。しかし、現象を否定するために、その現象自体をそのままの形で物語として導入するやり方は、本当に稚拙で不快だなと執筆が終わってから反省しています。ここらへんの葛藤は、本として出した時の「あとがき」に記載しています。

https://alternativewisdom.wixsite.com/interzone/blank-3

 

この小説のことは後書きで記した通りで、今でもやはり好きになれません。それでもこういう形で不特定多数に公開してしまうのは何故なのでしょう。

これこそが僕の悪意なのかもしれません。あるいは断罪を求めているのか。

 

自分はというと、今やVtuberという界隈からはすっかり距離をとってしまっています。たまに楽し気な声が聞こえてくるのを、遠巻きに見つめて、僕にはもうそこへ当事者のように踏み込むことは出来ないという脱力を感じる日々です。

そして今でも変わらずに箱や推しを熱烈に応援しつづける知人を見ると、眩しくて、胸が苦しくなります。

 

いつだって、輝いているものたちは、刻一刻と前進していくのです。それを見つめていたい、近くにいたいと思うのであれば、追いかけるように自身も走ることが必要です。そうして走り続けている間は無我夢中で、ひたすらに一つの方向を見つめていられるのですけれど、一度止まってしまえば、くじけてしまえば、あれだけ近くで輝いていたものも、なりふり構わず追いかけていた過去の自分とも乖離していくだけ。そこで、また走り出すことを選べるものは強いです。そして、僕は弱かった。

なんて言葉を積み重ねても、結局、僕という人間の熱量が「その程度」だっただけかもしれません。当時の自分にそんなことを言えば、顔を真っ赤にして否定するんでしょうけど。

 

ただね、それでもあの時間だけは本当だったんですよ。あの時、たしかに彼/彼女たちは輝いていて、それを一つも見逃すまいと全力だった僕自身の日々も、やっぱり輝いていたと思うのです。

信じていたものが形を変えた時、それ相応の振る舞いを見せなければ今までの時間が嘘になるなんて考え方は、クソだ。過去や事実は何も変わりはしない。どこかで立ち止まったからといって、あの輝いていた時間たちが、自分の振る舞いが、嘘になるなんてことはない。

眩しさに背を向けた後の問題は、僕が「これから」の時間をかけてケジメをつけていくことなんだから。過去が何か価値のないものへ変貌するなんて言説には耳を貸すつもりはない。

あの夢中だった日々を、消費した時間を、僕は一切後悔していない。そして、愛さなければよかっただなんて、一瞬たりとも考えたことはない。

それはね、一部の界隈に限った話じゃなくて、僕が関わってきた全人に思っていることなんです。僕は、今まで幾度となく別離を繰り返してきたわけだけど、その人たちとの時間たちが無駄だったとか、帳消しにしたいだとか、そんなことは思いやしない。

僕は、どの地点においても疑いようもなく「僕」であったことに自信を持っている。そしてそのことを、他者や環境といった外力によって汚されたり、改竄されることはない。

あの時、愛は、たしかにこの胸にあったはずなんだ。

敗戦処理みたいな人生でも、それだけは誇っているんですよ。

追記

Vtuber関係でいえば、「鳩羽つぐ」の二次創作オンリーイベントで発表した小説も、pixivにて公開しています。

鳩羽つぐというキャラクタを借りながらも、そのミームをとりまく「我々」を描写するような作品になっています。

​この作品は自分でも結構気に入っています。

https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=11432761

#24

イド:インヴェイデッド、とても面白かったですね。殺人鬼たちの造形や無意識の世界観はファウスト系らしさが多分に盛り込まれていて、それでいて「愛」と「正義」の物語を貫いていてポップさを保っている。オタクもライト層も満足感が得られる素晴らしいバランス感で構成されていて思わず膝を打ちました。

特に、富久田と本堂町ちゃんの関係性が好きです。

この作品、基本的に殺人鬼が殺人鬼を生む連鎖構造なんですよね。

ジョン・ウォーカーからすべてが始まり、穴あきから墓守が産まれ、墓守から模倣犯が産まれ。主人公の鳴瓢でさえもタイマンから産まれた殺人鬼のように解釈することも可能なわけです。

そんな中で、穴あきの副産物でもある本堂町ちゃんは、やはり認識に欠損はあれど、殺人鬼ではない。

(作中で人を殺していてイドにも介入できるために、彼女を連続殺人鬼と定義づける場面もありましたが、客観的に見て、自身の衝動を満足するために殺人を繰り返す連中とは一線を画していると思います)

殺人が殺人を呼ぶ世界において、主犯と被害者でありながら、恋人とも同僚とも宿敵とも言い難い奇妙な共同体のような関係性はかくも美しい。

ある意味で、二人はあの世界で二人だけの「同種」だったのかもしれません。その関係の最期が、涙、たった一滴の涙で締めくくられるのは本堂町ちゃんの精一杯のセンチメンタルでもあり、けじめでもあるわけです。

この二人だけで本当におなか一杯です。

 

あと穴井戸の切れ長の垂れ目で、夢女子になりました。きゅん。

#23

テレワークになると、驚くくらいに野菜を買うハードルが下がりますね。

#22

自分が正義を背負っていると自覚した故に、他者を傷つけることに躊躇がなくなっているような事例ばかりで本当に辛い

#21

流行に乗ってカミュの「ペスト」読みました。

カミュ、かつて「異邦人」を読んだ記憶はあるのですが、太古すぎて何にも覚えてないですね。というわけで異邦人も読み直してます。

で、この「ペスト」ですが内容を端的に紹介すると、『実際にこの小説が執筆された1940年代を舞台に、架空のペスト流行を題材とした閉鎖空間での群像劇』ですね。

極めてドキュメンタリータッチで描かれるので、実際に下敷きとなる事件があったのかと思い込んでいたのですが、ペスト自体はご存じの通り前時代の流行病で、調べても1800年代以降目立ったパンデミックはしていないようですね。無知が出てしまったな。

基本的にはペストというのは物語の原動力となる形而下での存在ではあるのですが、それと同時に『死』『不条理』『強制力』などといった形而上のものを示すモチーフとしてしばしば姿を現すのが本作の特徴です。

つまり、描かれる人々が疫病という迫りくる死の気配に包まれるとき、彼らは”何”に基づいて行動するのか。その心象風景をペストと結び付けて描写しているわけです。

作中取り上げられる人物は多く、医師・流れ者・新聞記者・判事・神父・役人などなど、それぞれ(きわめて人間の生活と結びついた)特徴的な立場の者たち。各人に行動背景や半生が明かされており、いわば”キャラ立ち”しているので、非常に群像劇として濃厚です。

その中で誰を取り上げるかで無数に語りえることのできる多面的な小説だとは思うのですが、ここで僕が取り上げたいのは犯罪者・コタール。

コタールについては描かれる人々の中でも最も異質で、彼だけは純粋にペストの蔓延する社会を素晴らしいものと肯定的に捉えています。

 

“つまり私には、ここがずっといごこちがよくなったんです、ペストと一緒に暮らすようになってから”

 

ペスト蔓延前に彼は自殺未遂者として登場し、すっかり絶望した人物として描かれるのですが、ペスト流行とともに生気が満ち溢れ、気さくな人物かのようにふるまい始めます。そして物語のラスト、ペスト終焉間際になると、疫病が終わってしまうことを心配するようなことをつぶやき、ついに流行期が終えて街が開放されると、発狂したように部屋から通りに向かって発砲騒ぎを起こして逮捕されていきます。

彼がペストを肯定する表層の理由は、犯罪者である自身がペスト流行中は逮捕を免れるからではありますが、それ以上に彼の抱えている本質的な「孤独」が関係しています。

 

“要するに、ペストは彼にはうってつけのものである。孤独な、しかも孤独であることを欲しない一人の男を、ペストは一個の共謀者に仕立てた”

 

つまり疫病の大流行という現実に、事実として社会は「一体感」を形成します。その「一体」の中には彼のような爪弾き者も含まれているのであって、そのことで彼は何よりもペストに「効能」を感じているわけです。

 

“「いや、そりゃもちろん、何かしらんの危険はありますよ。しかし、結局、ペスト以前にだっておんなじぐらい危険はあったんですからな、往来の激しい四辻を渡るときなんか」”

 

流行り病の致死率と、交通事故の年間死者数を比較する手法は現実でも見られ、それは疑いようのない詭弁ではあるのだけど、実際に彼のように「効能」を感じているものにとって、その物が持つ危険性などはまるっきり無視できてしまうものだということを的確に示していますね。

 

“あの男の唯一のほんとうの罪は、子供たちや人々を死なせたところのものを、心のなかで是認していたことだ”

 

僕自身はコタールとはまったく逆の立場で、この疫病というやつが生み出す「一体感」にほとほと手を焼いているのですが、しかし印象こそ違えど、やはり非常事態における社会が生み出す強制力を感じずにはいられないという点では、何よりも感性が似ている人物かもしれません。僕は過去に大地震における被災経験もあるのですが、その時もやはり同じことを考えていました。非日常において、まったく別個の人間たちが生み出す、この甚だ気色が悪い団結感はなんなんだろう。規定されているわけでもないのに、実行力を生み出す「空気」はなんなんだろう。分解すれば、帰属意識だったり、自治だったり、もっと単純に「自分が我慢しているのだから、お前も」という圧力だったりするのですが、それらが渦となって個々人を規律しはじめるのは本当に息苦しい。僕は体育会系のコミュニティにそれをしばしば覚えるのですが、今や社会全体が部活動みたいな精神性に包まれていませんか。

 

と、社会への愚痴みたいになってしまうので、ここら辺にしますが、とにかく「ペスト」という単一の事象を切り出したときに、これほどまでに多重的な解釈を示している本作はやはり名著。

気力があれば新聞記者のランベールという好人物についても書きたいですね。個人の幸福と、それを示す”愛”に奔走し、しかしやがて別の道である“誠実さ”に目覚める人物です。

今日のところは彼の最も好きな発言を切り抜いて終わります。

 

“自分の愛するものから離れさせるなんて値打ちのあるものは、この世になんにもありゃしない。しかもそれでいて、僕もやっぱりそれから離れてるんだ、なぜという理由もわからずに”

#20

「うしおととら」が全巻無料公開だったので読みました。

作中の大部分が主人公たちの旅路で、描かれるのは新たな出会い・中ボスの撃破・拗れた人間関係の修復という人情物のような

ストーリーなんですが、ぶっちゃけ大半が退屈でしたね。

キャラクタがぽんぽん出てきては、どいつもこいつも家族との確執を訴えてきて、なんか浅いなーとか、そもそもこいつらの誰一人も好きになれないなとか考えてました。
でも30巻くらいから最終決戦にむけていきなり話が引き締まって、お、これは面白くなってきたぞと考えていたのもつかの間。
秋葉流とかいう唯一好きだったキャラクタが、活躍の場を与えられて作中屈指のベストバウト。
死亡シーンは正直泣きそうになりましたね。ウォルターとか、ウルフウッドとか、それくらい死に際がきれいだった。というか完全にウォルターだな。ヘルシングのほうが後追いだけど。
ラスト2巻は、それまで30巻分の登場人物フル出演。
「これまでの回り道もあった長い旅はムダじゃなかった……!」というテンションで突っ切るけど、
いや、やっぱこんなに登場人物いらないのでは? と冷静になる自分も。
最後の黄泉からのサポート展開も、さとりとか徳野とかいらないでしょ。ヒョウと秋葉に比べて接点が弱すぎる。
とはいえ32,33の熱量のインフレはすごくて、鬼気迫る描き込みも相まって気圧されましたね。
ずっと鳥肌たちっぱなし。これはおもしれえや。
ということで、29巻ぐらいまでは平均70点くらいなんですが、ラスト4巻ぐらいで3億点ぐらいだしてきて、点数がめちゃくちゃになりました。でもやっぱり30巻は長いよ。

 

#19

ローストビーフ作ったんですが、冬場だからって25分お湯につけたのは失敗だったかな。

もっとレア感があるほうが良かった。

#18

大学卒業後に地元出てくる直前。
大学で付き合いのあった知人とカラオケ行くことになって
"イケ恋歌"の間奏で「中学時代は鏡音リンより、レンで抜いてた」と
最後の最期に謎のカミングアウトしてきたの、マジで何を伝えたかったのかいまだに分からない。

#17

「配られた手札で勝負するしかないのさ」

「俺はデックに残る、まだ見ぬ切り札を信じて止まないがな」

#16

今日、初めて地下アイドルのライブ(10グループぐらいの入れ替えがあるイベント)に行ったんですが、MCが挟むたびに隣に座っていた男性が「ボイトレをし始めたと聞いたが、この前より高音が伸びるようになったな……」「なに!? あそこのハコはこことは比べ物にならないくらい大きいぞっ」と漫画の解説役みたいに独り言を発していて楽しかった。

あとオタクがみんな楽しそうでよかった。オタクが楽しそうなのを見ると嬉しくなるので。

#15

サンデーうぇぶりで全巻無料公開していた「うえきの法則」を読みました。

最初の印象は「すげー行き当たりばったりな漫画」で、ピンチになる度にそれまで一切布石のなかったお助けアイテムやらキャラクタやらが登場して辟易。

案の定、能力バトルにも関わらず会う敵会う敵、開口一番に自分の能力の詳細を紹介し始める始末。

おいおい、これが本当に富樫以後の能力バトル漫画かよ、と思っていたのですが、話が進行するにつれて能力を隠し始めたり、コンボを狙ったり、制約を逆利用しはじめたり、マジでハンターハンター化し始めましたね。

基本的な価値観が義理・人情に全振りで、初期こそ勢いで走ってる印象でしたが、後半になるとバトルとギャグ、勢いでいくところと描写を丁寧にするところ、展開のバランスが洗練されていって「こいつ、連載の中で成長を……!?」と驚愕しましたね。

次はうしおととら読もうかな。

#14

父親が昇格したとは聞いていたけれど、久しぶりに帰った実家、シャンプー・リンスが全てノンシリコンのいいやつになっていて、社会に生きる人間の生活の質というやつは、こうも企業からの評価によって規定されるのかと再認識させられた。

#13

ワニ、今日が100日目ということもあって昨日からtwitterでは大盛り上がりですね。
ラスト予想という名の大喜利が大量生産されていく模様は、なんとなく既視感があったのですが、
けものフレンズ6話放映後の盛り上がりですね。
6話ラストは、それまでまったく喋らなかったハシビロコウが、
かばんちゃんに「あなたは人間だ」ということを告げて終わりだったのですが
その展開は話題を呼んで、次回が待ち遠しい視聴者たちが様々な想像をつぶやいていました。
そもそも当時はジャパリパークにとって、ひいてはフレンズたちにとって
「人間」がどのような存在なのか判明していなかったので、
それが明かされることが物語上どのように作用するのかみんな気になっていたんですよね。

まあ、実際には全員が人間という存在を把握していなかったので、その場では何も起こらなかったのですが。

それでもここを区切りに、謎が謎を呼ぶ物語前半から、パーク(とかばんちゃんの存在について)の事実を解明していく後半へ
物語が転調したと思います。
けもフレは転調点でしたが、100日後に死ぬワニはこれで終結。
いったい残り4コマで何が起きるのか。
とはいえラストがどうあってもここまでの話題性を作り上げた作者は凄いと思います。

そう考えると物語中盤、
6話までのストーリーテリングだけであそこまでの引きを作り上げたたつき監督はとてつもない天才だな……。

#12

最近、唐突にいろいろなことが許せるようになった。

「許す」といってしまうと、まるで僕が主にでもなり、
人々に贖罪を与えているかのような語弊があるけれど、
正確な記述をすれば、僕の中で「怒り」みたいな感情の落としどころが分かってきた、ということだ。

前にも書いたけれど、僕にはとにかく「怒りたくない」という気持ちが常々ある。
その脅迫神経的な恐怖がいつから芽生えたのは覚えていないけれど、特にここ数年は顕著に願うようになった。

僕は元来とても短気な人間だ。
人の一挙手一投足、一言説にまで、ムっとしてしまうのだ。
これは生来のもので、先天的で、たぶんどうしようもないのだろう。

そもそも僕は被害妄想がかなり強い。
他人がいつだって僕を非難していたり侮辱していたりするような気がしている。
もちろんそんなのは自意識過剰だってわかっているのに、
でもやっぱりあの一言は僕を傷つけるために放たれたに違いないと疑ってしまうような
どうしようもないバグった脳みそを持っているのだ。

「僕は優しい人には生まれなかった」
それはとてもコンプレックスで、いつだって人の幸せや笑顔を自分事のように喜んだり願ったりできる人間になりたいと祈っている。
なんだか陳腐だって笑われるかもしれないけれど、僕は本気でそう考えているのだ。

そして、その一歩が「怒らない」だった。


常にイライラしている僕だから、
それを他者に伝えずにいかに僕自身で完結させて収めるか、
というところで自己犠牲的な献身を見出しているのかもしれない。
結局のところは僕から生まれた感情、僕が欠陥品だから湧いてしまった負荷
それを解消していい人のフリしようだなんてマッチポンプがすぎるな。
これは他人にも指摘されたことがある。
「君は自分で他者を『許せない』レッテル貼りしてから、自分の中でそれを『許す』所作をすることで
 自分が懐の広い人物だと錯覚して悦に浸っているよ」

その通りだと思う。でも、それ以外に人に加害しない方法が分からない。
繕わなければ、僕はイライラにまかせて誰彼構わず傷つけてしまうだろうから。
やっぱり「怒らない」ことに注力しなければならなかった。

前までは自分の中で怒りの置き場所が分からなかった。
だから誰にも見つからないところで思いっきり叫んだり、
部屋の壁や棚に体をぶつけまくったり、自分をひたすら殴ったり、
大切なものをとにかく捨てまくったり、自傷みたいな形でどうにか解消していた。

結局のところ、「怒り」というのはエネルギーだと捉えていたから、
物理的な形で解消する必要があると勘違いしていたのかもしれない。

でも、それが最近は、すっと気持ちの中で鎮静させることが出来るようになった。
それを「許せるようになった」と冒頭で述べたことだ。
怒りがカっと湧いても、そんなのは取るに足らないことだ、
相手が僕を嫌いでも、僕が何を抱く必要もない。
ただ、凪のように、区別しないで他者の幸福を祈っていよう。
そんな穏やかさを得ることが出来たのだ。

なんでだろう。
他者とは決定的に分かりあえない、
愛や友情を標榜する人間ほど信頼できない、
そんな拗ねた思春期が信じる「真理」みたいなものに戻ってきてしまったからか。

あるいは、これは諦念や物臭なのかもしれない。
それでも、僕にはお似合いの境地だと思う。
いつだって、へらへらして、決して他人を加害しないで生きていたい。
今の僕はそれを強く、願う。

#11

こんな僕だから、お世辞でも元気が出たって言ってくれたことが嬉しかった。
なんていうか、安易にコミュニケーションに走ってしまうのは、僕の悪癖だ。
この前の夜も、無理やりみたいに言葉を引き出してしまって、ずっと落ち込んでいた。
僕らには心地よい距離があって、君はそれをすごくうまくコントロールしていると思うのだけど、
欠陥品の僕はすぐに温いほうに浸ろうとしてしまう。
でも、君は嫌な顔を見せないで、付き合ってくれた。僕は自分にムカついて反応を断ち切ってしまったけれど、言葉を続けてくれたことに感謝してるんだ。
ああ僕はこんな文章を書いて、惨めったらしくて、はやく自分に一貫性を持つべきだ。

#10

怒りたくないという気持ちが常にあって、でも本質は短気で自己中で、嫌な感情が何よりも先に想い浮かんでくる僕は本当に救いようがなくて、人を嫌いになるより前に自分をより嫌いになってしまう。
だから常に怒っていられる人はすごいと思う。これは皮肉じゃなくて、僕にはそんな外向きの活力どこにもないから。
物臭なんだ、とにかく。

#9

ゲーム実況が昔から見れません。

僕は小学生~中学生あたりの多感な時期とニコニコ動画の黄金期が被っていたので、まさにゲーム実況の隆盛を目の当たりにしてきた人種なのですが、どうも現在に至るまでゲーム実況動画というものをマトモに視聴できていない。
実況者が嫌いってわけじゃないんです。ただ、画面に張り付いて、じっと人のゲームプレイを見ているのができないんですよね。これは実際に友達の家とかに遊びに行った時も同じで。
人のプレイを眺めてるぐらいなら、自分で買ってやるよ、っていう。

いや、もちろん、自分とは違う他人の目を通したプレイ体験を楽しむって醍醐味は分かるんですけど。
やっぱりむずむずしちゃって、どうにも最後まで視聴ができないんですよね。スーパープレイも、逆に突き抜けたへたくそプレイも、そんなに興味ないし。
なんか強迫観念みたいなのもあるんですよね。とにかく初回のゲーム体験は、他人の動画でなく、実際に自分事として向き合わなくてはいけない、みたいな。
読み上げでテキスト送りが遅くなるのも苦手なのかな? とにかくせっかちだからな、僕。

関係ないけど、某有名実況者集団が好きなADVゲームをプレイしていたんですけど、いたって真面目なシーンでも読み上げがふざけてて(カタコトの外国人風だったり、キャラとは関係なくナルシストみたいな語調にしていたり)憤りを感じてしまった。でも、それが単純で思慮の浅いおふざけに見えても、実際に笑ってる視聴者層がいて、僕がそのターゲットじゃないってだけなんですよね。本当に関係ない話でした。すいません。

動画はそんな感じで、脳が病気気味なので見れないんですけど、人の声を聴いていることは好きなので、作業BGM代わりにはよく聞いてますよ。知ってるゲームなら、なんとなく「あそこを攻略してるな」とか漠然と分かるので、ぼんやりスポーツ実況とか聞いてる気分と近いのかもしれませんね。

そんな僕でも数少ないちゃんと見た実況は、まおのクロックタワー、ルーツの自作RPGツクールゲーム、revinの学怖とか。いや、さすがに古すぎない?
あと意外かもしれないんですけど「我々だ」も僕、実は好きで。なんていうか役割がきっちり決まったコミュニティのわいわい感は昔からベタに楽しめるんですよね。グループ系のYoutuber好きだし。で、「我々だ」のマイクラ人狼はすげー好きですね。面白い企画だと思う。他にもたまーにギアがかみ合う動画があって、楽しんで最後まで見れることもあったり。なかったり。まあ本当にごくたまに。


そんな僕なんですけど、実は昔はゲーム実況者やってたんですよね。


あー書いちゃった。これ、Twitterとかでも書いてないし、リアルでも全然話さないネタなのに。
まあ中学時代の思い出ですね。全然実況見ないくせに。なんか動画投稿みたいなのに憧れがやっぱあったんでしょうね。昔からテキストサイトとか運営してたから、今度は動画で自己主張とかするのが当時はカッコよく映ったのかもしれない。いやでも日記系とかじゃなくて本当に良かったな。もうちょい時代がズレてたらYoutuberキッズになっていたかもしれない。それも一概に悪いとは思わないけれど。
で、実況者時代ですね。何年やってたのかまったく覚えてないな。1年、2年いかないくらい? フリーゲームとかベタにやったり、あとはマイナーなPCゲームとかシリーズで出してましたね。実況自体が少ないので、マニアックな固定層がいて、伸びた記憶があります。
2008-9年くらい? だったと思うんですけど、ちょっと早い時期にTwitterとかやってファン交流とかしてました。そうなんですよ。固定ファンとかいたんですよ。なんだったんだアレ。
すげー美化された(というか顔出ししてなかったから、1から100まで想像の)イラストとか送られたりしてましたね。再生数なんて1000いったら大騒ぎの底辺ですよ? それでも楽しんでくれる人たちがいたんだなあって、思い返すと胸が熱くなりますね。ファンアートはめっちゃ直毛のさらさらしたロン毛で、実際の僕はむかつくほどくせ毛なので、絵の中の自分に嫉妬してました。誰だよこいつ。
中学生とかなんで、機材もしょぼくて、ピンマイク使ってたんですけど、クリップが壊れて最終的には文庫本積んで、そこに無理やり根元を挟み込んでマイク台代わりにしてました。昼飯3回くらい抜いて買い直せよ。
まあ正直、そんなに特筆するネタもないし、この話はこれくらいなんですけど。
でも、活動休止して数年後に動画全削除するときになって、ブログについてたコメントとか、ニコニコで誰かがつけてくれた身内ネタ全開のタグとか、なんかそういうのが凄く輝いて見えて、取り戻せないもののように思えて、ちょっと泣きそうになりました。もう全部跡形もなくなりましたけれども。
今回、マジの恥部を晒してしまった。後で消すかもしれないです。ごめんね。

 

#8

好きなバンドのライブに行きました。
ライブって全然好きじゃないんですよね。大勢の人が、見えない力で一つになろうとしていたり、同じ方向に体を揺らしたり、そういうのが凄く不気味だと感じてしまって。まあ音楽に限らず、例えば大きなニュースでSNSがその話題一色単になったり、曖昧な情報の真偽を掴もうと右往左往してたり、とにかく一体感みたいなのが苦手なのかな。被災した時も、水がどうだガソリンがどうだって騒いでいるのが気味悪くて、ただずーっと家にも帰らずに歩き回って、知らない人にがむしゃらに話しかけてその様子をiPhone4で録画して、ドキュメンタリーみたいなの作って一人でケラケラ笑ってたもんな。最悪のクソガキすぎる。

そんな御託抜きにしても、僕はどうやら耳が弱いらしくて、元々聞こえが悪いんですが、それに加えて大きな音をガツーンとやられるとすぐダメになって、数日は難聴生活になっちゃうんです。

でも年末にCDをタワレコで買ったらチケットがついてきて、まあ無料だし行くかなって感じでふらっと行きました。


やっぱり、行ったら行ったで楽しいんですよね。音がどうとか、グルーヴがどうとか、一切分からないし、というかひたすらうるさいし、とにかく周りの人もぶつかったりよじ登ったり、最悪だった。んだけれど。
やっぱり人が前に立って、感情あらわにして叫び倒してるのって、客観的にバカみたいだけど、なんかすっきりするんですよね。ライブ中の8割は、鳴ってることと関係ないこと考えていたけど。音楽って実際、人、救うんですか? まったく理解できない。音楽で救われたことのない人生なので。でも、小気味いいリズムや、胸に来る詩を聴くと、ちょっと楽になる。そんくらいのセラピー。


でも、やっぱりYoutubeにも挙がってるあの曲はすごくよかった。アルバムの中では、3曲目が実は一番好きなんだけど、それでもやっぱり中心に存在してるあの曲は特別で。
まあ、今の僕にはそこに張り付いてる、どっかの誰かのコメントが一番の印象になってるんだけど。
でも、すげえ曲だよな。
君は井戸でなんか叫んでるのかもしれなくて、じゃあ僕のここはなんだろう。山小屋か、洞穴か、座敷牢か、それとも幼少期、母親がヒステリックに怒り散らしていたのが怖くてよく逃げ込んだあの学習机の下なのかもしれない。
どこでもいいんだ。
でも、たまに壁を叩いて、そしたらなんか隣からノックが帰ってきて。いやまあ、気のせいかもしれないって、暗闇に向き直るくらいが、ちょうどいいよ。


こんくらいがお似合いだろ。

#7

「自分には人間関係のリセット癖がある」という言葉は、ある種の傲慢さを伴っていますよね。
まあ、僕のことなんですけど。
これって「自分から縁を切ってやった」って自負があって放たれる発言だと思うんです。
でも、実際のところ、僕の場合はそんなことないんですよね。
定期的に色々なことが嫌になって、それを自分の中に収められなくて、周囲の人々にまで迷惑かけて。
それで、あるところでプツンと一斉に圏外になってしまうんです。
結局、縁を切られてるのは僕の方で、悪いのも僕が弱いせいで。
ただ単に何度も愛想つかされていることを、「リセット癖」なんて言い換えて誤魔化しちゃいけないんだ。
僕はもっと自省しなくてはならない。

#6

車に轢かれて、路肩で弾けていた犬。首輪にリードがついたままの犬。
散った肉、カラスにつつかれていた犬。
引く手を振り切って、逃げ出した末の出来事であれば良い、と願う。

こんな惨状知らないままに、飼い主が呑気に行方を捜している最中であれば良い、と願う。


とても恐ろしいことだから。
 

楽しげな散歩のその途中、歩道から出た犬が撥ねられて。
瞬間、直前まで犬だったその物への興味が冷めて。
弔うこともなく、ただその場に放り捨てて帰ってしまう。
そんな人間がいると考えると。

 

それはとても恐ろしいことだから。
 

#5

Youtubeをよく見ます。

僕だけじゃなくて、今の20代以下なら大半がそうだと思うけれど。

僕自身は結構初期の方からいわゆるYoutuberを見ていて。

ある時期からその割合の多くがVtuberを占めるようになったりもしたけど、変わらず見続けていますね。

(実はここ最近はほとんどVtuberは見なくなってるのだけど、それはまた別のところで)

​なんで僕がYoutubeを見始めたかというと、昔から「バックボーンの弱い素人たちが集まって形成したコミュニティ」が好きだったからで。

その主要な舞台がYoutubeに移行してきたからという単純な理由です。

​昔はそれこそテキストサイトだったり、個人HPだったり、BBSだったりでずっとコミュニティの変遷、隆盛・没落を幾度となく観察してきました。

やがてそれはニコニコになったり、Ustreamになったりしたけれど、

とにかく今の主流はやはりTwitterとYoutubeだと思います。

僕の知人にもYoutubeチャンネルを立ち上げた人間が幾人かいて、その具合も様々です。

数十人程度で伸び悩んでいる人もいれば、短期間で何千人と登録者を稼いで、あっという間に毎月何万円も稼いでいる人もいる。

そういう人たちと話したり、Youtuberのファンミーティング的なものに顔を出したりして、最近気づいたんですが、

登録者が多い人間たちが「視聴者が求めていること」として捉えていることは、要約すると以下の二つだと思うんですよね。​

「変化」と「悩みの解決」。

変化は、人間的な成長ももちろん、些細な容姿の移り変わりも含んでいて。

洋服だとか髪を切ったとか、はたまた口癖が変わったとか。

コメント欄を見てみると、動画の本筋以外でも、そういった細部を観察して楽しんでいる人が多いことに気づきます。

もう一つは悩みの解決で、ある専門系のチャンネルをしている人も「普段のVlog的な動画より、道具のメンテナンス費用や維持費の下げ方を喋るほうが明らかに伸びる」と語っていたことがあって。

人間はネガティブな要素によって行動を決定しやすい、とは言うけれど、やはり「回答」を求めて検索欄を使う人間は多いのかもしれないですね。

仮想の「困っている人」を設定して打ち出した動画は再生されやすいのかもしれません。

あと、初動という点では競争が少ない、スキマコンテンツに特化した人が伸びやすいですね。

チャンネル名だけで何が得意な人か分かるのは強い。

逆に言うと、例えばゲーム実況とかメジャージャンルすぎるとただでさえ供給過多でパイの奪い合いが過酷なイメージ。

 

その点Vtuberって初動はめぐまれてて、「Vtuberである」だけで登録してくれる層が一定数存在するんですよね。それでも千人とか行くのは大変だと思うけど。

後そもそも「Vtuber」というジャンルは他Youtuberとかなり視聴者層が分断されているという印象で、「オタクの男」が層としてめちゃめちゃ厚い気がします。

ということで、男性がVtuberを個人で始めるのは、普通にYoutuberやるより厳しい気がしますが、どうなんでしょうね。詳しい人教えてほしい。

最期に個人的な意見なんですが、当たり前だけど「視聴者はわかりやすいものを求めている」ことに気付くのが大切かなと。

たまにいるじゃないですか。すっごい低めのボイチェンがデフォだったり、すごい早口なのにテロップ少ない人。

あれ端的に理解させる気がないのかと思ってしまうので、工夫が必要だと思います。

(そもそもボイチェンって結構難しいと思ってて、例えば僕らはゆっくり音声とかボカロ声って普通に聞けるけど、最初はかなり違和感だったと思うんですよ。

つまり僕らはオタクやっていく中で自然と「鍛えられて」いるだけで、そういう背景の薄い視聴者が聴いたら、単純に耳に不快な音声になってしまう恐れもある気がします)

 

長々書いたけれど、僕はYoutubeをやってないし、動画制作のプロでもなんでもない一般人なので、的外れだったらすいません。

とにかく、僕は何かを創作して世間に公開している個人の人が大好きで。本音でいうと登録者とか数字なんて関係なしに応援したいという気持ちがあります。

でもせっかく頑張っているのだから、僕だけじゃなくて、もっともっと多くの人間の目に留まって、羽ばたいて欲しいなあなんて考えたりするのです。

あと、僕自身は、Youtuberの視聴者が一番求めているのは「関係性」だと思っています。

#4

​雨は嫌いです。

ただでさえ汚い街が、更に汚濁を増して、僕を侵そうと流れ込んでくるようで。

濡れた布が皮膚に張り付く感じも、苦手。

冬の雨なら特別に辛い。とにかく惨めな気分になってしまう。

 

「酷い時があるんです。雨でぐしゃぐしゃだと」

なんて好きなバンドが歌っていたな。でも「雨が降ってたほうが人たちは生きやすい」なんて嘘だと思います。

雨が降っている時の人類、平時の二割増しで傲慢なところあるし。

雪も嫌いです。

雪が降っていて綺麗、だなんて、あまり感じない。これは感性の問題だけれども。

正直、雪って残存効果が強い雨みたいなもので、実際にアスファルトに落ちた雪って黒ずんで不潔だし、積もっても実際のところはべしゃべしゃしてて気味が悪い。

やっぱり晴れが好きだ。

日光に当たってぼーっとしているのが幸せです。

​みんなそうか。

#3

創作物とか創作論についてはあんまり語らないと思います。

自分の創作物について言及するの苦手なんですよね。

普段から過去作の話とかしないし、あんまり宣伝もしないんですけど、それは単純に気恥ずかしい気持ちが強いからです。

あと創作論みたいなのはあんまり持ってないです。何でもいいんじゃないですかね。

極端に品がないのは嫌いなので、炎上マーケティングとかは苦手ですけど。

逆に「創作すること」自体は結構考えることが多くて。でも、それはどうしても自分事というか。

「僕が創作をしていくこと」みたいなのを延々考えちゃうんですよね。

それって他者に公開してもしょーもなくないですか?

なんで、僕はそんなに「創作してます!」みたいなキャラ出したくないし、そもそも中身もないんですよね。

でもでも、誰かに読んでもらえるのは嬉しいし、感想とかもらえるととっても幸せです。本心で。

やっぱ一人で延々孤独にやってると、なんか自家中毒みたいになるというか。マジで面白いのか、意味が伝わってるのか分からなくなるんですよね。

他者の存在はありがたいです。多謝。

あっ、クソ寒いギャグみたいになってしまった。照。

#2

じゃあなんでテキストなんて書き始めたの? って言われると、単純に「軽薄な文章」が書きたいからですね。

僕はTwitterの短文文化が嫌いじゃないんですけど、でもやっぱり戦略的にダラけた文章を表現するには難しいツールだと思っていて。

時折、なんだか無性にヘラヘラした道化のような文章を書きたくなるんですよね。

でもTwitterだとなんかうまくいかなくて、書いてみるけど数分で消しちゃうことが多い。

僕が使い方ヘタなだけかな。

実際、そういうのが上手い人っているしな。

にゃるらさんとかそんな感じ。彼の場合、ブログの時は逆に少し文体が引き締まって、かっこいい。

僕が課金しているnoteはにゃるらとダヴィンチ恐山です。めっちゃ脱線してるな。

とにかく、無価値で、無意味で、しょうもない文章を生産していきます。人生みてえな。

#1

え、ついにテキストサイトやっちゃうの??

僕はずっと、noteとかはてブとか、まとまった形で文章が書けるサイトに手を出すことを恐れてたのに。

というのも、twitterで面白いな~と思ってた人が、そういうブログ的媒体に手を出してみた結果、自己肯定と他者批判を無限に繰り返すマシーンになったケースをいくつか見てきたからなんですよね。

 

そもそも、僕は常に自己肯定したくないという気持ちがあって。

きっと、自己肯定に慣れてしまったら、僕は「今の場所」に満足してしまうだろうから。

僕は僕の今立っている場所が到達点だとはまったく思わないし、これからも可能な限り前へ進んでいきたいと願っている。

だから、必要なのは自己否定だ。常に否定を繰り返して、自分に不満を抱き続けて、自身を傷つけながらさまよっていきたい。

僕はよく、非合理な判断をわざとする。

自分が「合理的だ」と下した判断の、その逆を実行する。

それは、自分の合理を信じている限りは「自分」という範囲から決して抜け出せないと考えているから。

僕は自分を超えた、何かを掴みたい。何も満足したくない。

だから、願わくば、ここが自己肯定や他者批判の場所にはなりませんように。

#43
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