水銀の落下
テキストサイト。
#212
バーチャルYouTuber彩翅モルフォは鮮やかに舞う。 ——夢のさめるまで。
小説を公開します。
今より少しだけバーチャルYoutuberや推し活文化が世間に浸透していなかった時代に書いた、過去の小説です。
2019/11月 COMITIA130 初出
2023/5月 文学フリマ東京36 合同誌「GOETIA」再掲
#211
"グーで負けた。グーで負けるというのは、保守的なために敗北したかのような、苦い後悔が残るものだ。"
#210
30になった。
前々日から喰らっている風邪の中、熱にうなされ、それでも仕事に追われ、この文章を殴っている。
30になるのは本当はずっと前から覚悟が決まっていた。
年下の友達に「20代って一瞬だった?」と聞かれたことがある。それに深く考えずに「長かったよ。人生で一番長かったし、一番自分が変わったと思う」と答えが出てきたとき、自分自身、もう30を迎える準備ができているんだな、と気づかされた。
20代は長かった。もう十分かな、と思うくらいには、僕の人生は長く感じた。その中で、多くのことが変わって、また多くのことが残っている。
5つの時に出会ったあざらしを今でも毎日抱いて寝ている。10の時に立ち上げた個人HPはもう残っていないけど、インターネットの中に僕はいる。
20の直前に一本書きあげてから始めた小説は今や引退目前だが、その直後に出来た人生の師は今でも僕の中で輝いている。
25の時に失った20kgの体重は半分戻ってきていて、その時に出来始めた友達はいい奴らで今でもつるんでいる。
薬のODはやめて5年以上経つ。最近じゃ酒もほどほどにしてる。タバコは変わらず日に2箱吸ってる。ここ2年弱では恋人がいる。去年始めたVRでは気のいい友達がたくさんできた。
Don't trust over 30?
でも僕はいつだって年上の友達たちに囲まれて、影響を受けてきたもんな。
そんな僕も、今では周りは年下の知り合いばかりになっている。
僕の言葉なんて信用しなくていいけれど、悪友と認めてくれてるならそれに越したことはない。
"ティーンエイジよ、泣いてくれ。
いつかはそれもできないで、
立ち尽くす日が来るでしょう。
その時までは、泣いてくれ。"
30になった夜、僕は38℃の身体を引きずってファイティングポーズをとった。
29まで死んでいったいくつかの知人に向けて。僕はまだ死なねえぞって意味を込めて。
勝利宣言とは思ってない。人間に決まった寿命なんてない。別に死ぬのが悪いとも思っちゃいない。ただ、こっちにいる自分が寂しいだけだ。
だから、僕はまだ周りを寂しくはさせねえぞ、って意味で拳をかかげる。
でも、いつかはあんたらの仲間にはなる。必ず来る終わりには。
だが、まだ拳は降ろさない。最終ラウンドまでは、降ろさない。
こんな恥ずかしい文章は、これを最後にしたい。ここに置いていく。
皆、ありがとう。いい20代だった。
一応、約束があったから、ここからは私信で失礼する。
まあこの場所を作ったのはそもそもあいつに影響されたことがあったから、義理としてというのもある。
あの約束から5年? 6年? 忘れたけど、僕は約束通り30になった。もしお前が約束を守ってるんならまだギリ30、そろそろ31だと思う。
あるいは、約束を破ってるんならやっぱり28や29のままってことだ。
知ってるか? CRYAMY、カワノが脱退して事実上の休止だってよ。
最後の日比谷でカワノが「世界」やってる映像、ずっと怖くて見られなかったけど、意を決してようやく見たよ。
正直、胸が締め付けられる思いだった。
初めて僕がCRYAMYのライブ見たとき、やつは最後にギターを叩きつけて舞台袖に消えていった。
そんなことばっかり繰り返してるから、あいつのジャガーのヘッドは砕けたままで、つるんとして情けない姿だった。
でも、そんなカワノが、最後のライブが終わってさ。いつものようにギターを振りかぶって……。
どこかやるせなさそうに力が抜けて、それを振り下ろさなかった時に。
僕は30になるんだな、ってどこか実感したんだ。馬鹿らしいけどさ。
なあ。あの時、お前が僕を探してコメント残したあの曲を覚えてるか?
本当は僕ら、「このまま幸せになる」なんて一片も思っちゃいなかったよな
僕ら、「よほどのこと」なんていつでもすぐ近くにあると思ってた。
でもそれを飲み込んで、約束したんだろ。30まで生きるってさ。
本当は全部ムカつくんだよ。
ハヌマーンを聴いても、Cali≠gari聴いても、不可思議聴いても、時速聴いても、トモフ聴いても、お前のアイコンがちらついてムカつくんだよ。
本当は、人生ってやつ全て、今でもイラついてるよ。さっさと死にてえな、ってまだ不意にでる独り言を喉の奥に押し込んで、笑って楽しそうに生きてるよ。
なあ。"こんな強制参加の徒競走は、最下位で良い”んじゃないのかよ。
俺らはもう、長生きでよかったんじゃなかったのかよ。
さっさとこんなバカバカしい20そこらのガキの、ファイトクラブに影響見え見えの、だっせえ約束は終わらせようぜ。
手っ取り早い河原でぶん殴りあって、顔ボコボコにしてさ。
お前が消えても、後は追わない。
僕はちゃんと決めたことを守り続ける。
毎日ファイティングポーズ取って、きっちり笑って最下位でゴールしてやる。
だから、ずっと約束を果たしに来るのを、待っています。
#209
未来は……
※本文章は2024年に企画した合同誌『不定期刊行ROOM101 vol.1』に寄稿した文章です。
高校一年、僕の初めてのアルバイトは過酷を極めていた。
とあるファミレスチェーンで働き始めた僕を待っていたのは、怒涛のシゴキだった。
当時の副店長は極めてパワハラ体質で、新人である僕に目を付けて初日からこれでもかというくらいに、ねちねちと、ねちねちねちと、僕を言葉で追い詰めていた。
機嫌が悪いと無視は当たり前。
右も左も分からないまま困惑する僕を冷たい目で追い、重大な失敗を侵す直前で走ってきて罵倒を浴びせる。
こんなのもできねえのか。金貰ってるんだろ。バイト代もらいながら説教されて恥ずかしくないのか。
そして壁を蹴って威嚇する。
周りの人も、副店長の言いなりばかりで『つかえねー奴入ってきたな、さっさと辞めろや』みたいな空気を全身に漂わせながら僕をそれとなく疎外していた。
今思えば職場として外れ中の外れであり、バックれてしまえば良いだけである。
だが当時、社会というものにまだ十分に接続されていなかった僕は他の労働環境を知る由もなく、こうしなければ給料をもらうことは出来ないものなのだと無理矢理自分で納得させる術しか思いつかなかったのだ。
そして採用されて一週間程度が経った日、それまでレジ打ちと掃除ばかりしていた僕に副社長は突然こう言い放った。
「よし、明日はフロアで実際に注文取らせるから。店のメニュー全部覚えて来い」
そしてダメ押しとばかりにこう付け足した。「もちろん、略号も全部暗記して来いよ」
当時の某チェーンでは、客の注文を端末で取った後、キッチンの方ではメニューが略号で記載されたレシートが吐き出される仕組みだった。
例えばミラノ風ドリアは「ミD」だしサラミとパンチェッタのピザは「サラミP」である。
一つ一つは大したことないものの、膨大なメニュー全てで略号を覚えるのは、それも一晩というのはなかなかに無理難題と言える。
それでも、僕は徹夜でなんとか詰め込んだ。そうしないと給料がもらえないと思ったからだ。
当時の僕は「G線上の魔王」のアートブック付の初回超重量特典版が欲しくて、それは中古相場でも六千円した。高校になってもロクに小遣いをもらえてなかった僕にとっては、エロゲ購入費用の捻出は死活問題なのである。
次の日、僕は高校の授業もそっちのけで、必死にメニューと略号を裏表に書き移した単語帳をめくって全部覚えるハメになった。
バイトに到着すると、副店長はニヤニヤしながら舌なめずりして、仕事もそっちのけで僕にメニューを覚えてきたかテストを仕掛けてくる。
「真イカのパプリカソースは?」
「『真イカ』だけです」
「ライス大は?」
「『大R』です」
「Wサイズのキャベツのペペロンチーノは?」
「『Wキャベペペ』です」
結果として、全問正解だった。
副店長は大層機嫌を悪くして、近くにあったテーブル拭き用の雑巾を床に叩きつけて、どこかに消えてしまった。
なんで言われた通りに全て覚えてきたのに、怒らせてしまったのだろうか。当時の僕はさっぱり理解ができなかった。
だが、そんなやりとりを見ていたのか、副店長が消えた後でキッチンから一人の男が話しかけてきた。
「自分、根性ある感じか」
それは清水先輩だった。
彼は、僕より一年早くバイトに入っていた、近くの柄の悪い工業高校に通っている二年生のバイトである。
僕はいつもキッチンにいるこの先輩が苦手だった。茨城の平均値と比べるとヤンキー丸出しの見た目ではないが、きっちりとした短髪でガタいが良く、スクエアのメガネから覗く眼球はどことなく冷たい印象で、何を考えているかよく分からないことが多かった。
「どうでしょう……。そんなことないと思いますけど……」
「ちょうどいいや。お前、俺の舎弟にしてやっから。その方がバイトしやすいだろ」
「え、舎弟……ですか?」
ああ、とも、そうだ、とも言わずに、ニヤっと笑うと清水先輩は客の方まで聞こえる声でキッチンの中、怒鳴った。
「今から、こいつ俺の舎弟にすっから! 俺が面倒みるから、お前もういいから!」
視界の端で、休憩室で煙草を吸っている副店長が怯えた目をしているのを僕は見逃さなかった。
その日から、僕は清水先輩の舎弟としての日々が始まった。
舎弟と言っても何かが劇的に変わったわけではない。使いパシリされるわけでもなく、金銭を要求されるわけでもなく、ただ休憩室で「おす、舎弟」と肩を組まれる程度だった。
それからバイトの始まりまで先輩の話し相手を続けて、分からないことがあると先輩に聞いて「こうすりゃいいから」とぶっきらぼうに教えてもらった。
……ちなみに先輩の教える方法は5割くらい間違っていた。
それでも、清水先輩の舎弟になってからは不思議なもので、副店長はおろか、誰も僕にちょっかいをかけることはなくなった。
なぜなら皆が清水先輩を畏怖していて、その先輩の付き人である僕もその庇護下に入ったからである。
最初はなぜ皆が清水先輩を恐れるのか分からなかった。けれど、それは同じ時間を共有している内に自然と明らかになっていった。
清水先輩は、無敵だったのだ。
高校に秘密で取った中型免許でKTMの250cc(ニーハン)を日常的に乗り回しており、そのエンジン音と共に出勤する。
そしてバイトが終わると決まって、食洗用シンクのシャワーでジャバジャバと頭を洗い、手入れされた短髪から滴る水を撒き散らしながらキッチンを通り抜け、さっぱりした顔でまたエンジン音と共に退勤していく。
従業員ロッカーには店長のいう事も守らずにパンパンに漫画を置きっぱなしにしていて、休憩時間は特攻の拓か、るろ剣か、らんま1/2を読んでいた。
バイトを同じ時間に上がった時は、別のファミレスで駄弁るためにバイクの後ろに無理やり僕を乗せた。もちろんヘルメットなんて貸してくれないから僕だけノーヘルだった。
ある時は、高校の同級生から勝手にパクってきたバケモノみたいな長さのガスガンを試すためにバイト先の駐車場で乱射しまくった。
ちょうどいい目標がなかったから僕は的として立たせられた。……ついでに客の車にもヒットしていた。
またある時は、金髪にするためにバイトの従業員出口の裏にある蛇口を使ってブリーチしようとして店長に怒られ、逆ギレしたまま休みだった社員のレオパレスに乗り込み、有無を言わさず風呂場で脱色して、他人の社宅の風呂場をとんでもない状況にしたこともあった。
僕が休憩中に腹減っていたら、勝手に調理ミスをしたことにして「これ捨てるからやるよ」とミックスグリルをタダで横流ししてくれることも多々あった。
ちなみに社員にバレるとすぐそっぽを向いて、僕だけねちねち小言を喰らった。
それでも怒鳴られなかったのは、やっぱり清水先輩の舎弟だったからなのだろうか。
清水先輩は、無敵だった。
無敵で、めちゃくちゃで——誰よりも自由だった。
そんなある日、社員がローンを組んでレクサスを買ったというニュースが店を巡った。
バイトの面々からは『薄給の癖に見栄張って何年もローン組んでさあ』と嘲笑している声が多数だった。
でも、清水先輩だけは違った。ただ無言で、しかし楽しそうに口角を上げていた。
それから数日後。社員が出勤すると、清水先輩はすかさずに社員の元に飛んでいく。
「お前、レクサス買ったんだ? 自動ブレーキついてるやつっしょ?」
社員は得意げに「まあね」とスカして答えてバックヤードのロッカーにキーを放り投げると、僕らと入れ替えにフロアに入っていった。
先輩はそれを無言で見送って、社員の姿が休憩室の入り口から見えなくなると、ポケットから金属片を取り出した。それはビニール傘の骨を折って作ったピッキングツールだった。
先輩は鍵穴にそれを差し込むと器用に何度か捻って社員のロッカーをこじ開け、僕に向かって「おい舎弟、見に行くぞ」と言った。
その右の人差し指には、レクサスのキーがきれいに弧を描いて回転していた。
駐車場には噂通りのピカピカのレクサスが鎮座していた。清水先輩はためらいもなくロックを解除して乗り込んでいく。
「よし」バイト上がりの油まみれの手で内装をベタベタと触ると、パワーウインドウから顔を出す。
「お前、ちょっと車の前に立て」
僕は「なぜか」を聴き返すこともなく、従順に従う。
「もっと後ろにしろ。あと大股で10歩……もうちょい……よし、そこでいい」
平日夕方前でガラガラの駐車場の中、僕は車から15mほど離れた位置でピタリと止まる。
「絶対動くな。出来るか? 一歩でも逃げようとするとセンサーからズレるからな」
先輩が何を企んでいるのかは一切分からなかった。ただ、命令として一歩たりとも動いてはいけないということだけ理解した。
僕はただぼんやりとその場で突っ立っていることにした。
その瞬間、突如としてレクサスが火を噴いたように唸りを上げる。何度もアクセルを吹かして
——あっという間に車は全速力で僕に向かって走ってきた。
車が視界いっぱいに近づいてきたとき、走馬灯なんて訪れなかった。
ただ呆気にとられたまま、「あ、ぶつかるのか」という非現実感だけに包まれていた。
——結論から言うと、金切り音を立てて車は止まった。僕のつまさきのほんの先っちょがフロントバンパーに潜り込むところで。
「やっぱすげーな、レクサス。本当に止まったわ」
清水先輩は、「おもしれー」と一言いって、また裏口から休憩室に帰って行った。放心して膝から崩れ落ちる僕を置いて。
ガラス張りの店では、フロアから写真が青ざめた顔でこちらを見ているのが分かった。
その一か月後、どこかのモーターショーで行われた自動ブレーキ体験会で、車が止まれずに乗客が重傷を負う事件が報道された。乗っていた側でさえ全身が破壊されるほどの大事故だったという。
……もし僕があの時、直撃していたら。だがそれを考えるのは無意味だ。
僕は生きていた。それが結果である。清水先輩を信じたという、結果だ。
セーフティブレーキは15km/hを下回ると作動しない。清水先輩がもしブレーキを中途半端に踏んだり、アクセルを弱めていたら、僕はそのまま激突されていた。
でも清水先輩はアクセルを踏み抜いて、自動ブレーキを作動させた。生身の知り合いを目の前にして。
清水先輩にはそれが出来た。
——清水先輩は無敵だ。だから、舎弟である僕も無敵だった。
それから月日が経って、清水先輩は高校卒業と共にバイトを辞めた。
隣町の工場に就職したと言って、湿っぽさの欠片もないままに最終日を終えて消えていった。僕をバイクの後ろに乗せることもなく。
僕は一抹の寂しさを覚えていたが、不安はまったく感じることなんかなかった。清水先輩は就職しても、きっとそこでもブイブイ言わせていくのだろう。
多分、生涯にわたって無敵で居続ける。
そう、信じていたのだ。
それから月日の経ったある日。学校の教室で後ろの生徒たちが会話しているのが聞こえてきた。
「んで、店に最近入ってきた一個上がさ、ほんとうぜえの」
熱っぽく愚痴を吐いているのは、確か、少し前に僕と同じチェーンの、隣町の店舗で働き始めたという男子生徒だった。
「なんかすげえナルシストでさ、言う事も聞かねえし、みんな厄介がってるんだよ。昔ここの近くの店でバイトしてたか知らねえけどさ、独自ルールみたいなのでオペレーションするし、みんなにめっちゃ嫌われててさ。もう全員に無視されてるわ。日勤の工場上がってから直で来るから汗っぽくて臭えし、飲食やっていい人間じゃねえよ」
その会話が耳に流れてきたとき、僕は瞬間的に頭に熱が上がるのを感じた。
それは——清水先輩のことだってすぐに分かったからだ。
我も忘れて、殴りかかろうと席を立とうとした。そうするのが、舎弟としての僕の役目だと思った。
それでも、僕は————何もできなかった。
だって、僕は学校で教室に馴染めずに、寝たふりばかりしていた人間だったからだ。
——僕が無敵だったのは、無敵な清水先輩がいるバイト先だけだった。
そこから一歩外に出たら……三年に上がる時に身の振る舞いをしくじって、教室からパージされていた惨めな身分の自分しかいなかった。
今ではバイト先に行っても清水先輩はいない。僕は、僕だけの地獄で日々に目を背けて生きていた。
だから……。
だからせめて、隣町の店舗に足を運ぶことにした。
その夜、一時間ほど件の店舗の裏口で待ちぼうけた末、ようやく清水先輩は姿を現した。
「……なんだお前、そんなとこで」
伸びっぱなしで癖がついた、先輩らしくない黒髪を掻いて、手を上げる。
「サイゼ、復帰したんですね」
「金、なくてな。フルタイム働いて、家賃もギリギリって意味わかんねえだろ」
「なんでこっちの店に来てくれなかったんすか? こっちだったらもっと自由に働けますよ。舐めてる新人の奴にバカにされても、こっちなら吹っ飛ばせばいいじゃないですか」
「そんな、社会人のオレが今更めちゃくちゃできるわけねえだろ」と苦笑して、「それに」と付け加えた。
「——お前の前じゃ恥ずかしくてな」
本当は、一目見た時から分かっていた。
清水先輩は——弱っていた。
無敵と呼ぶには、あまりにも惨めな出で立ちだった。
先輩は薄給のまま工場で使い潰されて、何も自由に振る舞えないまま、運ばれてくる金属板をプレス機で加工する毎日に消耗していた。KTMのニーハンも売り払ってしまったという。
薬剤でボロボロになった指をしきりに組み直して、先輩は言った。
「お前もさ、舎弟なんてヤメでいいから。俺は兄貴にはもう向いてねえよ。これっきり終わりで、お前も自由でいいからさ。あっちのバイト先でも俺のこと知らない奴ばっかだし、変な雰囲気のまま残してって悪かったな」
先輩の言葉を聞きながら僕は血がにじむほど唇を嚙んでいた。だって、それは世界で一番聞きたくなかったことだから。
「舎弟っすよ……」僕は震える声で先輩に伝える。
「ずっと清水先輩の舎弟に決まってるじゃないですか。清水先輩がいなかったら——」
清水先輩がいなかったら?
僕はバイトなんてとっくの昔に辞めていた。多分、バイト自体を諦めてしまっていた。G線上の魔王も買えなかったし、CARNIVALのノベル版も、美少女ゲームの臨界点も、するめいかのDVD全巻も、HELLSINGのThe DAWNまとめ冊子も手に入らなかった。
もしかしたら労働というものについて今でも諦念を重ね続けていたかもしれない。
それ以上に——自分が無敵だったって心から思えた、あのひと時を全て失っていたかもしれないなんて、考えたくもなかった。
清水先輩は——無敵だった。そして今はもう、無敵じゃない。
目の前の清水先輩は、他人にめがけてアクセルを全開に踏み込むことなんて出来なくなってしまって。
でも、確かにあの時は無敵で、めちゃくちゃで、自由だったんだ。
僕はそれに惹かれ、支えられ、なんとかあの鬱屈したバイト先を生き延びてきた。
僕は、先輩の舎弟であることに誇りをもっていた。
それは——今も変わらない。
先輩がどんな弱さを身に着けても、僕は先輩を尊敬している。今もだ。
今、この文章を書いている、今も。
「そうか……」
言葉に詰まった僕の姿を、先輩は苦笑すると
「まあ、じゃあ——俺ももうちょっと頑張るわ」
と呟いた。
「ニーハンねえから、送れなくてすまんな。俺も朝早えから、帰って寝るわ。
……今度会うときには、ネックレスでも作っておいてやるよ。最近、色んな加工機触れるようになったからよ」
そう言って、先輩は僕の肩を一度だけ叩いて——銀紙の星が張り付いた夜空の下に消えていった。
そして、それが僕の見た最後の先輩の背中だった。
この話に続きはない。
先輩から連絡が来ることはなかったし、僕は僕でその後の酷い期間を経てLINEを含む連絡ツールを全て消し去ってしまったからだ。
感動的な再開なんて存在しなかった。
ネックレスは——ついぞ受け取れなかった。
だけど僕は今でも思い出す。アスファルトに染みついたタイヤの擦り跡を。さっぱりとした、先輩のあの横顔と共に。
無敵だった、先輩と僕の日々を。
#208
Twitter見ているとげんなりする話題が流し込まれるし、気分転換にSNSから少し距離を置いてまた日記をつけようと思う。
前回より気楽にやりたい。すぐやめると思うし。
あと肌寒い日も増えて服を選ぶのが楽しくなってきたので、その日の着用したものでも併記してみる予定。
